紛争開始以前の竹島(鬱陵島)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:45 UTC 版)
「竹島一件」の記事における「紛争開始以前の竹島(鬱陵島)」の解説
現在の鬱陵島にはかつては于山国という国家があり、高麗顕宗の時代に高麗領に編入されて移民が進められたが失敗した。李朝の成立後、李朝はこの島が高麗再興派や倭寇の根拠地となる事を恐れてこの島を立ち入り禁止とした。1402年に作成された李朝の地図ではこの島に「鬱陵島」という名称を付けている。 一方、日本でもこの島は磯竹島、または竹島として知られており、桃山時代に描かれたいくつかの日本地図には隠岐と朝鮮半島の間にこの島を描いたものが見受けられる。折りしも豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本海沿岸住民のこの島への関心が高まるとこの島が無人島の状態になっている事を幸いにこの島に立ち入るようになり始めた。これに気づいた李朝の東萊府が1614年(慶長19年)に対馬藩に対して抗議を行った。対馬藩は竹島(鬱陵島)を日本領であると主張したとされているが、当時は両国とも内外に複雑な事情を有していたため、この時にはそれっきりとなった。
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