篠田源兵衛の訴訟への協力
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「石徹白騒動」の記事における「篠田源兵衛の訴訟への協力」の解説
極度の困窮状態が続く中で進まない訴訟に、追放社人間の団結に揺らぎが生じる事態を救ったのが篠田源兵衛であった。源兵衛は有力追放社人らと協議を重ね、膠着した事態の打開策を練った。篠田源兵衛らはまず、江戸で訴訟を進めている人材が数名と手薄である点が問題であると考えた。続いて京都の白川家に願い出て、白川家から幕府に吟味の催促を願ってもらうこと、それでも裁判が進展しないようならば、寺社伝奏を通じて朝廷に訴えるという策を練った。そしてまず宝暦8年2月26日(1758年4月4日)、長尾左兵衛、久保田九郎助の2名の社人が白川家に対する働きかけを進めるために京都へ出発した。 しかし極度の窮乏状態にあった石徹白から追放された社人らにとって、篠田源兵衛からの援助があったといっても、江戸で訴訟を進める人材増強は至難の業であり、ようやく宝暦8年(1758年)6月初めになって、久保田九郎助、森左衛門が同5月までに非業の死を遂げた追放社人餓死者72名の名簿を携え、江戸に向かった。結局、久保田九郎助、森左衛門が行った箱訴が受理され、幕府による訴訟が進められることになったため、寺社伝奏を通じての朝廷への訴えは行われなかった。
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