篠崎の解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:45 UTC 版)
1942年2月12日、日本軍によるシンガポール攻撃を受けてチャンギー刑務所の囚人は解放され、篠崎ら日本軍と連絡があったとして収監されていた日本人はシンガポール陥落後の同月16日に第25軍憲兵隊・横田昌隆分隊によって「救出」された。 解放後の同月17日頃、篠崎は、クイーン街(英語版)の東洋ホテルに篠崎を訪ねて来た同盟通信の稗田特派員に東郷外相宛の連絡電報を依頼し、折り返し当面の指示を受けた。 篠崎は日本軍によるシンガポール占領直後、シンガポール市内の粛清工作を担当した昭南警備隊司令部の「特別外事高等係」として同警備隊を支援し、同年3月の昭南特別市政庁の開設後は、豊田薫とともに市政庁に出向し、教育科長を務めた。 1942年6月11日に篠崎はシンガポールを離れて日本に一時帰国し、篠崎がベルリンに駐在していた時代に駐独大使を務め、1942年当時外務大臣となっていた東郷茂徳を訪問した。東郷外相は篠崎に「長かったな、これで温泉にでも行って静養し給え」と労いの言葉をかけ、部厚い札束を渡したとされる。
※この「篠崎の解放」の解説は、「篠崎スパイ事件」の解説の一部です。
「篠崎の解放」を含む「篠崎スパイ事件」の記事については、「篠崎スパイ事件」の概要を参照ください。
- 篠崎の解放のページへのリンク