笹尾の辞任と死
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1913年(大正2年)4月に笹尾鉄三郎が聖書学院の院長を事実上辞任した。笹尾の辞任は翌年の5月14日に「焔の舌」で正式に発表された。その後、笹尾はフリーの巡回伝道者になり関西、九州と伝道旅行をしたが、鹿児島で肋膜炎を患い帰京し、1914年(大正3年)12月30日に東京で病死した。1915年(大正4年)1月4日に中田の司式で聖書学院にて葬儀が行われた。 1916年(大正5年) 1月に中田は関西に向かい、姫路市、広島市、香澄村(現・岡山県備前市)を巡回する。途中、妻あやめが病気であるという電報を受けて、急遽帰京した。小原十三司、丹羽平三郎らと病気の癒しを祈るとあやめは回復した。 1916年5月には聖書学院で東洋宣教会大会が開かれた。J・B・ソントン宣教師と中田が説教をした。この大会中には神田、浅草、牛込などでも特別集会が開かれた。
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