競合レースの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
解放によって国外への出走が可能になると、最初に海外遠征を行ったのはマルセル・ブサックだった。ブサックのプリアム(Priam)はハードウィックステークス(Hardwicke Stakes)を勝ち、カラカラ(Caracalla)はイギリスで最も重要な競走の一つであったアスコットゴールドカップに勝った。既にコリーダやジェベルなどによって凱旋門賞を4勝していたブサックは、毎年何頭もの有力馬を凱旋門賞に送り込んでおり、1946年の凱旋門賞ではそれが顕著に表れた。ブサックは本命のカラカラを出走させたが、このときブサックがカラカラのためのペースメーカーとして出走させたのは1944年の凱旋門賞優勝馬のアルダン(Ardan)だった。ブサックの競走馬は強すぎて、彼の所有馬が登場すると他の馬は回避するし、馬券の倍率は下がって馬券の売り上げが落ちるのが主催者の「悩みの種」ですらあった。 しかし、1946年の凱旋門賞の出走メンバーが手薄になった理由はほかにもあった。この年、凱旋門賞の6日後に、イギリスのアスコット競馬場で新しい大レースが創設された。3歳馬のために2マイル(約3200メートル)で行われるキング・ジョージ6世ステークスである。この年のパリ大賞とロワイヤル・オーク賞の優勝馬スヴレン(Souverain)はイギリスの大レースを選んだ。フランスダービー馬プリンスシュヴァリエ(Prince Chevalier)は凱旋門賞に出てきたが、プリンスシュヴァリエは既にパリ大賞とロワイヤル・オーク賞でスヴレンに敗れており、明らかに3歳馬の中では2番手以下の評価だった。前年の2歳チャンピオンのニルガル(Nirgal)や、フランスダービー2着のエルスヌール(Elseneur)もキング・ジョージ6世ステークスを選んだ。英国ダービー馬のエアボーン(Airborne)やアイルランドダービー馬のブライトニュース(Bright News)も出走したので、キング・ジョージ6世ステークスのほうが凱旋門賞よりも国際的な一流馬を集めることに成功していた。 これ以降も、セントレジャーで2着になったアルバール(Arbar)や2歳チャンピオンのジェッダ(Djeddah)など、フランスの一流馬にも凱旋門賞よりキング・ジョージ6世ステークスを選ぶものが続出した。フランスの主催者は、キング・ジョージ6世ステークスの主催者に対し丁重に施行日の変更を申し入れたが、受け入れてもらえなかった。
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