稲葉賀恵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/04 05:58 UTC 版)
稲葉 賀惠(いなば よしえ、本名:稲葉 佳枝、1939年12月18日 - )は、日本のファッションデザイナー。
来歴
東京都出身。八重洲生まれ、鎌倉・横浜育ち。祖父・父は横浜でタイプライターを取り扱う「稲葉商会」を営んでいた[1]。
1958年、横浜雙葉学園を卒業。1960年に文化学院美術科を卒業。文化学院の同級生に山東昭子、鳥居ユキ、安井かずみ、菊池武夫。1963年菊池と共に原のぶ子アカデミー洋裁学園(現・青山ファッションカレッジ)を卒業[2]。その頃東京に進出した欧米のオートクチュールのアトリエで働くことを志願したが叶わず、1964年に赤羽に自らのアトリエを開いた[3]。その後1970年に菊池や大楠裕二とともに、ビギ(BIGI)を設立[4]。アトリエは後に麻布十番に移転。
1972年に「モガ(MOGA)」を、1981年には自らの名を冠した「ヨシエ・イナバ(yoshie inaba)」を発表。同年、日本ファッション・エディターズ・クラブ賞を受賞した。 1984年「ヨシエ・イナバ・パルファム」を発表する。1988年には"快適さ"をテーマとしたカジュアル・ウエアのブランド「レキップ・ヨシエ・イナバ」を発表。
2025年2月末で「ヨシエ・イナバ」ブランドをクローズ[5]。
人物
- 日本航空や日本アジア航空、東急電鉄など企業の制服や、ジュエリーデザインや結城紬のアドバイザーなど、多分野で活躍している。
- 1963年ファッションデザイナーの菊池武夫と結婚、男児をもうけるも離婚[6]。離婚を機に占い師のアドバイスで「佳枝」から「賀惠(恵)」という名前を名乗る[7]。
- 1963年より雑誌「ミセス」の専属モデルとしても活躍。雑誌が描く理想的なライフスタイルを体現する女性として、デザイナーとしてのみならずモデルとして2000年代まで和装洋装問わず登場した。
その他
2012年、契約解除に伴う制服設計図流出問題で日本航空を提訴した[8]。
ブランド[5]
- ヨシエ・イナバ
- レキップ ヨシエ・イナバ
- ヨシエ・イナバ・パルファム
- クシュカ(CUSUKA)
- ペーパーウェイト
- ビギ
- モガ
ユニフォーム・制服[5]
- サントリーホール(1986年)
- 花王ソフィーナ(1987年)
- 日本信託銀行(1987年)
- 立石電機(1988年)
- 青森銀行(1989年)
- NTTデータ(1990年)
- 東急電鉄(1992年)
- 日本航空 客室乗務員(1996年、2004年)
- ミキモト(2002年)
- アルビオン(2002年)
- 横浜雙葉学園(2002年)
- ポンテヴェキオ(2005年)
- JR西日本「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」クルー(2014年)
書籍
- マイ・フェイヴァリット きものに託して(2014年9月、集英社インターナショナル)ISBN 978-4797672909
- yoshie inaba(2024年12月、講談社)ISBN 978-4065379585
脚注
- ^ 稲葉賀恵『yoshie inaba』講談社、2024年12月20日、90-93頁。
- ^ “yoshie inaba | ヨシエイナバ”. yoshie inaba | ヨシエイナバ. 2020年9月11日閲覧。
- ^ 稲葉賀恵『yoshie inaba』講談社、2024年12月20日、102-104頁。
- ^ “【平成プレイバック】 デザイナー稲葉賀恵が振り返る「“ファッション”から現実的な“モノ”目線への変化」”. WWD JAPAN.com (2019年4月22日). 2020年9月11日閲覧。
- ^ a b c 稲葉賀恵『yoshie inaba』講談社、2024年12月20日、182-183頁。
- ^ “菊池 武夫 Vol.3 │SOW.TOKYO”. SOW.TOKYO│ファッション・アパレルのメディアサイト. 2020年9月11日閲覧。
- ^ 稲葉賀恵『yoshie inaba』講談社、2024年12月20日、110頁。
- ^ JALvs有名デザイナーCAの制服で訴訟に発展した原因|NONSTOP!ノンストップ!過去の放送内容
参考文献
- 新ファッションビジネス基礎用語辞典 pp. 869-870
外部リンク
固有名詞の分類
- 稲葉賀恵のページへのリンク