稲垣定計とは? わかりやすく解説

稲垣定計

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 01:27 UTC 版)

 
稲垣 定計
時代 江戸時代中期
生誕 享保13年(1728年
死没 享和4年1月18日1804年2月28日
改名 鎌吉、定計、南岳
戒名 香林院海栄南岳大居士[要出典]
墓所 群馬県伊勢崎市 天増寺
官位 従五位下・若狭守周防守長門守
幕府 江戸幕府 大番頭大坂定番
主君 徳川吉宗家重家治家斉
近江国山上藩
氏族 稲垣氏
父母 父:稲垣昭倫
母:渡辺輝の娘
養父:稲垣定享
松平忠暁の娘
定淳、定時、定賢、定邦、娘(増山正賢正室)
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稲垣 定計(いながき さだかず)は、近江山上藩の第4代藩主。

生涯

稲垣定計の墓(群馬県伊勢崎市 天増寺)

旗本稲垣昭倫(三河刈谷藩主稲垣重昭の次男)の次男[1][2]享保13年(1728年[1][2]、もしくは享保18年(1733年)6月22日[要検証]の生まれ。幼名は鎌吉[1]

先代藩主の稲垣定享には女児2人しかいなかったため、元文5年(1740年)定享が死去すると、6月21日にその末期養子として跡を継いだ[1]延享元年(1744年)11月15日、将軍徳川吉宗御目見する[1]。延享2年(1745年)10月18日、従五位下・若狭守に叙任する[1]寛延2年(1749年)4月7日に周防守に改める[1]宝暦8年(1758年)11月15日に大番頭となる[1]。宝暦12年(1762年)12月27日長門守に改める[1]天明元年(1781年)10月12日に大坂定番を命じられる[1]寛政3年(1791年)10月13日に定番を辞任し、翌年11月20日に長男の定淳に家督を譲って隠居[1]。寛政7年(1795年)7月に剃髪して南岳と号した。

享和4年(1804年)1月18日[2]、77歳で死去した[1]。墓所は群馬県伊勢崎市天増寺[1]

系譜

父母

正室

子女

  • 稲垣定淳(長男)生母は正室
  • 稲垣定時(次男)
  • 稲垣定賢(三男)
  • 稲垣定邦(四男)
  • 増山正賢正室

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 3巻、新人物往来社、1987年4月10日、325頁。doi:10.11501/12190274ISBN 4-404-01402-3 (要登録)
  2. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『稲垣定計』 - コトバンク




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