稲垣定享とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 稲垣定享の意味・解説 

稲垣定享

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 01:45 UTC 版)

 
稲垣 定享
時代 江戸時代中期
生誕 宝永7年(1710年
死没 元文5年4月25日1740年5月20日
改名 熊次郎、定享
墓所 群馬県伊勢崎市 天増寺
官位 従五位下・安芸守
幕府 江戸幕府 駿府加番
主君 徳川吉宗
近江国山上藩
氏族 稲垣氏
父母 父:稲垣重房
北条氏朝の娘
二女、定計
テンプレートを表示

稲垣 定享(いながき さだみち)は、近江山上藩の第3代藩主。

生涯

稲垣定享の墓(群馬県伊勢崎市 天増寺)

山上藩第2代藩主・稲垣重房の子として生まれる[1][2]宝永7年(1710年[1][2]、もしくは正徳4年(1714年)3月7日[要検証]生まれ。幼名は熊次郎[1]

享保5年(1720年)4月26日、父の死去により跡を継ぐ[1]。享保11年(1726年)5月28日、将軍徳川吉宗御目見する[1]。同年12月18日、従五位下・安芸守に叙任[1]享保17年(1732年)4月、日光祭礼奉行を命じられる[要出典]享保19年(1734年)5月[要出典]駿府加番を命じられる[2]江戸の大火で上下両屋敷が焼失して出費が相次いだため、質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行したが、効果が見込めず、また定享自身が早世したため、失敗に終わった[要出典]

元文5年(1740年)4月25日に死去[1][2]。男子がなかったため、跡を養嗣子の定計が継いだ[1]。墓所は群馬県伊勢崎市天増寺、法号は叟良英翠峯院[1]

系譜

父母

正室

子女

  • 二女あり[1]

養子

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 3巻、新人物往来社、1987年4月10日、325頁。doi:10.11501/12190274ISBN 4-404-01402-3 (要登録)
  2. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus『稲垣定享』 - コトバンク
  3. ^ 三河国刈谷藩主稲垣重昭の次男



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「稲垣定享」の関連用語

稲垣定享のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



稲垣定享のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの稲垣定享 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS