稲垣寿恵子とは? わかりやすく解説

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稲垣寿恵子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 09:16 UTC 版)

いながき すえこ

稲垣 寿恵子
『日本メソヂスト横浜教会六十年史』(1937年)
生誕 1860年6月23日
日本 尾張国
死没 (1931-07-28) 1931年7月28日(71歳没)
日本 神奈川県横浜市中村町
国籍 日本
職業 教員
活動期間 1889年 - 1926年
時代 明治 - 大正
団体 横浜婦人慈善会、女子復興会、横浜連合婦人会
著名な実績 失業者や貧困者の救済、視覚障害者への援助、娼妓の救済などの社会事業
影響を受けたもの カロライン・ヴァン・ペテン
肩書き 横浜婦人慈善会 会長
宗教 キリスト教メソジスト
子供 海野幸徳
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稲垣 寿恵子(いながき すえこ、1860年6月23日[1]万延元年5月5日[1]〉 - 1931年昭和6年〉7月28日[1])は、日本の教育家[2]社会事業家[1][2]伝道師[3]。失業者の救済のための団体である横浜婦人慈善会の会長を務めた他、貧困者のための根岸慈善病院の設立、横浜訓盲院の援助、娼妓の救済など、多くの社会事業に力を尽くした。社会事業家・海野幸徳の母[4]。下の名は「スエ[4]」「スエ子[5]」「すえ子[3]」「末子[3][6]」などの表記もある。別名は露香[3]

生涯

誕生〜入信

尾張国(現・愛知県名古屋市)で誕生した。郷里で漢学を学び、十代にして優れた漢学の知識を備えていた[3]。1876年(明治9年)、女範学校(現・愛知県立女子師範学校)に、教員として勤めた。2年後に上京し、1879年(明治12年)には、東京九段の海野数学塾で教壇に立った[3]

1884年(明治17年)、横浜山手の聖経女学校の教員となった。同校はメソジスト監督教会婦人外国伝道会社により、女性の伝道者の養成を目的として創立された学校であり、初代校長のカロライン・ヴァン・ペテンに招かれてのことであった[3]。自身は「ヤソ嫌い」(キリスト教嫌い)といわれていたものの、ヴァン・ペテンの敬虔な信仰生活から強い感化を受けたことで[7]、この学校に勤めて間もない頃に入信して、キリスト教徒となった[2]。同校の教員として伝道も行い、埼玉熊谷本庄[8]東北仙台山形天童にまで足を伸ばした[9]

社会事業

折しも日本の欧米文化の窓口と言える横浜では、全国的にみて早期からキリスト教のもとでの慈善活動が行われており、明治期にはキリスト教徒により貧困者や子供たちの救済のための学校建設などの活動が行われていた[10]。1889年[注 1](明治22年)、稲垣や社会事業家の二宮わかを中心として、失業者たちの救済を目的とした横浜婦人慈善会が発足された[1][12]。稲垣は会長を務め、副会長の平田かく(メソジスト派の牧師・平田平三の妻)らとともに、災害被害者や困窮者への救援の他、貧困者のための病院である横浜婦人慈善病院を開院した[3]

横浜婦人慈善会は、日本メソジスト横浜教会における困窮者児童救済活動の中心となり、その救済活動は関東大震災の前後まで続けられた[13]。患者の多さから赤字続きであったが、慈善会の会員や慈善家による寄付、バザーや音楽会を通じての政財界人の妻たちの支援が得られた[3]。稲垣は横浜婦人慈善病院を住居とし、午前中は聖経女学校の教壇に立ち、午後は伝道のために外出し、帰宅してから病院の患者たちを見舞った。足尾鉱毒事件の患者の受け入れにも力を注いだ[3]

1900年に横浜婦人慈善会が社団法人となったことを機に、その会長職から退いた。横浜婦人慈善病院も神奈川県済生会に移譲して終わったため、病院の整理、譲渡のための手続きなど、様々な業務の中心となった[3]

関東大震災が勃発すると、医療不足と女子失業者の救済を目的に、毛糸編み物授産を目的とした女子復興会を組織した。この事業は後年、横浜婦人矯風会授産部へ引き継がれた。震災後には救援物資配給活動から横浜連合婦人会が組織されたことで、その実行委員を務めた[3]。これらの他に、教会婦人会の指導、横浜訓盲院の理事[3]、娼妓の救済など、各種の社会事業に力を尽くした[1][2]

引退・死去〜没後

1926年に引退した後、1931年7月、中村町の娘の家で、満71歳で死去した。同1931年11月、横浜蓬莱町教会(現・横浜上原教会)で追悼会が執り行われた[3]

翌年に同教会で発行されたパンフレットには、「横浜の慈善会病院の創立者、愛の使徒 稲垣末子女史」として称えられている[6]。少女期に身につけた優れた漢文の素養からか、伝道での講話は「心に残る話だった」と懐かしむ声も多く聞かれる[3]

脚注

注釈

  1. ^ 横浜婦人慈善会の発足を1890年とする資料もある[11]

出典

  1. ^ a b c d e f 教文館 1988, p. 123
  2. ^ a b c d 日本基督教団 1986, p. 134
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 江刺 & 史の会 2005, pp. 48–49
  4. ^ a b 本多創史「ワイズマン遺伝学説と断種手術 -海野幸徳の選択-(下)」『生物学史研究』第100巻、日本科学史学会生物学史分科会、2020年6月30日、12頁、CRID 1390570010597128832NCID AN001294452025年3月5日閲覧 
  5. ^ 森田忠吉 編『開港五十年記念 横浜成功名誉鑑』横浜商況新報社、1910年7月9日、784頁。doi:10.11501/778917NCID BN13765731 
  6. ^ a b 平野 1982, p. 55
  7. ^ 横浜プロテスタント史研究会 編『横浜の女性宣教師たち』有隣堂、2018年3月10日、162頁。ISBN 978-4-89660-226-5 
  8. ^ 日本キリスト教団 1975, p. 120
  9. ^ 日本キリスト教団 1975, p. 119
  10. ^ 嶋田昌子、常光明子、関口昌幸「これまでの女性の社会進出と男女共同参画の取組 (2) インタビュー : 女性が自由に呼吸できる街・横浜 : 開港から現代までの女性のまちづくり」(PDF)『調査季報』第179号、横浜市総務局調査室、2017年2月、22頁、doi:10.11501/11665760NCID AN002878102025年3月5日閲覧 
  11. ^ 江刺昭子「自由民権と女」『歴史地理教育』第656号、歴史教育者協議会、2003年7月1日、25頁、doi:10.11501/11198383NCID AN00254924 
  12. ^ 江刺 & 史の会 2005, p. 177
  13. ^ 『横浜市教育史』 上巻、横浜市教育委員会、1976年3月31日、745頁。doi:10.11501/12115245NCID BN01231660 

参考文献




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