秦楚戦争とは? わかりやすく解説

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楚攻略

(秦楚戦争 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 22:53 UTC 版)

楚攻略
戦争秦の統一戦争
年月日紀元前225年-紀元前223年
場所:中国
結果の滅亡
交戦勢力
指導者・指揮官
李信
蒙恬
王翦
蒙武
負芻(捕虜)
昌平君 
項燕 
戦力
李信:200,000
王翦:600,000
10数万[注 1]
のち30数万[注 2]
損害
李信:ほぼ全滅
王翦:不明
全滅
秦の統一戦争

楚攻略戦(そこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部でを滅ぼすまでの戦い。

攻略戦

紀元前225年秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した[1]。李信は、「20万」で充分だと語った[1]。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った[1]。秦王政は、王翦が耄碌したものと捉え、若く勇ましい李信の案を採用して侵攻を命じた[1]。王翦はこれを不満に思い、病気を理由に軍職を辞し故郷の頻陽へ帰った。

李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍を破った[1]

さらに、李信と蒙恬は、楚の首都(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る[1]

しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を項燕が指揮を執る楚軍が急襲、楚軍は三日三晩一切休まずに攻め続け、李信軍を大いに打ち破った。秦軍は2つの城壁を破られ、7人の都尉を失う大敗を喫し、潰走した(城父の戦い[注 3][2][1]

秦王政は敗戦の報を聞いて激怒した。自ら頻陽へ急行して王翦に謝罪し、「私が将軍の策を用いなかったばかりに、李信が秦軍を辱めた。日々、楚軍は西へ進軍している。あなたほどの者が私を見捨てようというのか」と、再び将軍として軍を率いてくれるよう懇願した。これに王翦は「大王がどうしてもこの老臣をお用いになるというならば、60万の兵を与えてくだされ」と返した。秦王政はこれに従い、王翦に60万の兵を与え、蒙武を裨将軍(副将)とした[3]

紀元前224年、秦将王翦と蒙武が60万の大軍を率いて楚に侵攻、強固な防衛を攻めで超えるのは困難と判断し王翦は堅守・不出の戦術を採用、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は捕虜となり、項燕は淮水で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。

紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死(もしくは自害)し、ついに楚は滅亡し[注 4]九江郡となった。

紀元前222年、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。翌年、秦はを滅亡させ、天下を統一する。

脚注

注釈

  1. ^ 『史記・楚世家』によれば、頃襄王は東地から10万以上の兵を得て失地を回復した。このことから通常の場合、東地からは10万以上の兵を動員できると推定される。
  2. ^ 楚の大臣昭常の言によると楚東地の最大動員数は30余万とされる。
  3. ^ また『史記・王翦列伝』によるとこの時昌平君が配されていた後方の秦領、旧楚都の郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)で項燕に呼応するかの様に反乱が起き、李信が指揮を執る秦軍はこの鎮圧の為に西へ向かおうとした所、楚軍の奇襲を受け壊滅したとある。
  4. ^ 『史記』秦始皇本紀による。『史記・楚世家』では項燕の死後に負芻が捕虜となっている。

出典

  1. ^ a b c d e f g 島崎晋 2019, p. 80.
  2. ^ 秦滅楚 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
  3. ^  司馬遷史記・ 白起王翦列傳第十三』。ウィキソースより閲覧。 



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