福田、最後の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:49 UTC 版)
ポスト鈴木善幸総裁選(1982)田中・中曽根 対 福田 1982年10月、再選確実と見られていた鈴木は退陣を表明(中曽根康弘は鈴木に退陣を匂わされ準備をしていたという)。鈴木派所属だが角栄とそりの合わない宮澤喜一への後継指名を福田が鈴木に提案するが、鈴木はこれを拒否する。総裁選を1週間中断して行われた話し合いによる調整はうまくいかず結局後継総裁は総裁選で行われることになった(1982年総裁選)。 中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎の4名が立候補したが、福田派が擁立した安倍は予備選得票率8.28%に終わり存在感を示せず、田中、鈴木、中曽根3派の支持と党員の過半数の支持を受けた中曽根総理が誕生した。 二階堂擁立構想(1984)田中・中曽根VS福田・鈴木・三木 「田中曽根内閣」と呼ばれるほどの偏重人事に鈴木派は次第に不満を募らせていき、遂には福田、三木そして野党までも巻き込んで田中派会長の二階堂進を担ぐ倒閣運動に発展していく。 詳細は「二階堂擁立構想」を参照 結果は失敗したが党長老たちの力は弱まり、急速な世代交代が進行してその後の田中支配の終焉の遠因になる。
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