神のわざと人間の共働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 09:15 UTC 版)
以上のような人間観を基礎として、正教会は、罪深い堕落した状態にあってもなお、人には自由な選択の能力があると信じ、救いを、神の恩寵と人の自由意志の共働であると捉える。 聖使徒パウェル(パウロ)によるコリンフ前書(コリントの信徒への手紙一)3:9にある「我等は神の同労者なり」が参照されるほか(「同労者」…ギリシア語: συνεργοί, 共働と同語源の「共に働く者」の複数形)、リヨンの聖イリネイ(エイレナイオス)によれば、ルカによる福音書1章38節に記された、生神女福音(受胎告知)において生神女マリヤが応答したことも共働として理解される。 これら共働をめぐり、府主教カリストス・ウェアは、正教会の立場が誤解されないためのポイントを三つ挙げている。 人間の自由意志は本質的な条件であるが(エジプトのマカリオス)、「功績(merit)」の概念は東方の伝統に無縁であり、救いはあくまで神の自由な賜物である。 「神のわざは人間の側が行うことからみれば比較にならないほど重要」であるが、これは「X%が神のわざでY%が人間のわざ」といった「割合」によって理解されてはならない。救いは「全体的に完全に神の恵みのわざ」であり、かつ「神の恵みのわざの内にあって、人間は全体的に完全に自由であり続ける」。神の恵みと人間の自由は互いに排他的概念なのではなく、互いに補い合うものである。 人間の良い望み・善行は、最初から神の恵みの内にあるのであって、人間の意欲が神の恵みより先であるとは考えてはならない。時間的先行・因果性といった概念はいずれも誤りである。
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