社会存在論からドキュメンタリティへとは? わかりやすく解説

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社会存在論からドキュメンタリティへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 03:39 UTC 版)

マウリツィオ・フェラーリス」の記事における「社会存在論からドキュメンタリティへ」の解説

批判的存在論から自然に導出される結論とは、外的世界変更不可能であること、そしてカント超越論哲学正しく適用される対象領域があり、それは社会的対象であること、これらである。フェラーリスの新たな思想の展開は『Dove sei? Ontologia del telefonino』(2005年)[英訳:『Where are you? Ontology of the Cell Phone』(フォーダム大学出版局)]の出版とともに始まり引き続いてバッボ・ナターレとの共著Gesù adulto』(2006年)、『Sans Papier』(2007年)、『La fidanzata automatica』(2007年)、『Il tunnel delle multe』(2008年)が発表された。ここで基礎となる主張次のようなものである。つまり、存在論認識論弁別し、「対象記銘された行為(object = inscribed act)」という構成的規則によって統制される社会的対象領域自律性承認することによって、デリダによる「テクスト外部には何もないthere is nothing outside the text)」(もともとのデリダ主張文字通り訳せば「外部テクスト何もないthere is no outside text)」という非文である)というテーゼ修正可能になり、ジョン・サール主張反してテクストの外に社会的なものは何もないthere is nothing social outside the text)」という命題理論化できるということである。こうして円熟段階至ったフェラーリスの思想は、彼の主著とも言える『Documentalità. Perché è necessario lasciar tracce』(2009年)[英訳:『Documentality. Why It Is Necessary to Leave Traces』(フォーダム大学出版局2010年)]で体系化された。また、マウリツィオ・フェラーリスとレオナルド・カッフォが編んだ『Monist』の特集号でもその成果披露されている。

※この「社会存在論からドキュメンタリティへ」の解説は、「マウリツィオ・フェラーリス」の解説の一部です。
「社会存在論からドキュメンタリティへ」を含む「マウリツィオ・フェラーリス」の記事については、「マウリツィオ・フェラーリス」の概要を参照ください。

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