石抹宜孫の配下となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/14 08:32 UTC 版)
章溢と同郷で、共に王毅の下で学問を学んでいた。元の末期、戦乱が起こると「浙東の地はこれより災いが尽きないだろう」と嘆じた。それから龍泉の子弟を集めて自警団を作った。石抹宜孫が万戸として処州の守りに就くと、参軍事となった。募兵で数千の兵を集め、点在する山寇を捕らえた。温州の韓虎らが主を殺して反乱を起こした。胡深は温州に赴き、説得した。軍民は感泣し、韓虎を殺した後、城を明け渡して降伏した。盗賊が龍泉を落とし、監縣・宝忽丁は遁走した。章溢と王毅は壮士を率いて盗賊を撃った。その後、宝忽丁が帰還し、しばらくして王毅を殺して反乱を起こした。胡深は章溢と共に、これを討ち、宝忽丁を捕らえて殺した。近県の盗賊を探し、これらを全て平定した。石抹宜孫が行省参政に進むと、元帥となった。 1358年12月、朱元璋の武将・胡大海が婺州を攻めた。その後、朱元璋自身もやってきた。胡深は兵車数百輌を率いて援軍として向かい、松渓で形勢を見渡すために進軍を止めた。朱元璋は「援軍として石抹宜孫がやってくる。聞けば彼は兵車で来援するらしい。この辺りの地形を知る者によれば、松渓山は狭い道が多く、兵車では行くことはできない。精兵で抑えれば、破ることができる。援軍を破れば、城中の士気は落ち、労せずして落とすことができるだろう」と諸将に言った。朱元璋の命を受けた胡徳済により、梅花門の外へ誘引された胡深は戦いに敗れて退却した。援軍を失った婺州は朱元璋の手に落ちた。 1359年11月、胡大海、耿再成が処州を攻めた。石抹宜孫は元帥・葉琛を桃花嶺、参謀・林彬祖を葛渡、鎮撫・陳中真を樊嶺、元帥の胡深を龍泉に屯させて迎撃の態勢を整えた。しかし、士卒の士気は低く、胡大海の兵が合流し、胡深らは敗れた。11月、耿再成らの軍は城下へ進軍した。石抹宜孫は敗れ、葉琛、章溢と共に建寧へ向かい、処州は朱元璋のものとなった。胡大海の武将・繆美は降伏した葉琛に、胡深の説得に向かわせた。葉琛は「朱元璋は天運を持っている。将士は功名を欲して戦うもので、ここで降伏しても、誰があなたを侮辱しようか。去年、我が軍は朱元璋軍に大敗した。今年、朱元璋軍は戦わずして勝った。これは天意によるものだ。危険が迫っているのなら、これを改めて、富貴を保つことを考えたらどうか」と説いた。胡深はこれを容れて、龍泉、慶元、松陽、遂昌の4県を明け渡して降伏した。
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