石堂にまつわる平家伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/25 14:17 UTC 版)
「岡益の石堂」の記事における「石堂にまつわる平家伝説」の解説
1184年(文治元年)の壇ノ浦の戦いで海中に没したとされる安徳天皇は、実は二位の尼や越中次郎兵衛盛次らに守られて戦場を離脱していた。平家一門は海路因幡国賀露の浜にたどり着き、法美郡岡益にある長通寺の住職の庇護を受けた。しかし梶原景時を頭とする源氏の追及は厳しく、一行はさらに山深い八上郡明辺(あけのべ)の地に遷って行宮を築き、息を潜めるように暮らしていた。 戦から2年後の1186年(文治3年)の春、山伝いの法美郡荒船に遊びに来ていた安徳天皇は急に病を発して崩御した。盛次らは一行を匿ってくれた長通寺の住職に幼帝の供養を頼み、一門の再起を期していずこへか落ちのびていった。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている。 また天皇が崩御した荒船の地には、天皇を祀る崩御神社と殉死した平家一門の墓があり、安徳天皇崩御の地と伝えられている崩御ヶ平という小字もある。二位の尼の墓所と伝えられているのは同郡新井(にい)の「新井の石舟」と伝えられている古墳である。 この伝説に着目した長通寺10世住持・牛尾得明師は岡益の石堂を安徳天皇の陵墓と断定し、宮内省に十数年かけて陳情した。石堂は1895年(明治28年)に陵墓参考地となった。
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