石井均一座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:41 UTC 版)
東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い、人相が悪いことを理由に不採用が続き、伝手を頼って紹介された製薬会社も入社試験を受けたが採用には至らなかった。1958年に伊東は早稲田大学生協職員に採用され、時間が出来ると観劇に様々な場所へ赴いた。その中で新宿フランス座の座付き俳優だった石井均は同じくこの年に劇団「笑う仲間」を旗揚げ、この舞台を見に足繁く通っていたため一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。それらの経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。「笑う仲間」はもう一人の共同主宰者と石井の仲違いから数か月で瓦解「石井均一座」として再出発し新たに財津一郎(当時は財津肇メ)らが加わった。 最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」だったが(「一等賞」をもじって名付けられたとの説もある)、ポスターなどに名前が連なる時に「名前が一文字なため、先輩より目立つ。お前も2文字にしろ(→四朗)」ということで「伊東四朗」と改名した。
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