県内の空襲被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 23:44 UTC 版)
埼玉県内に初めて空襲が行われたのは1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲の際のことで、空母ホーネットから飛び立ったB-25爆撃機のうちの一機が同日12時30分頃、南埼玉郡潮止村(現・八潮市)に飛来し、日本煉瓦製造潮止工場付近に爆弾を投下したが被害はなかった。さらに同日12時40分頃、ドーリットル隊の3番機が川口市弥平にある日本デイゼル工業川口工場を爆撃し12人が死亡、88人が重軽傷を負った。この後、埼玉県内は終戦までに『埼玉県警察史』によれば20数回、『埼玉県史』によれば40数回の空襲を受けることになり、県南部の工業地帯の所在する川口市、浦和市(現・さいたま市浦和地区)、大宮市(現・さいたま市)といった都市や飛行場に隣接する地域が被害を受けたが、全県に及ぶ調査は十分ではなく、全てを網羅すれば従来の報告数を上回るものと推測されている。なお、専門家の栗田尚弥は、これらの多くはアメリカ軍により設定された第1攻撃目標としての攻撃ではなく、予定計画外に行われた臨機の目標に対する攻撃、または偶発的な攻撃だったと推測している。 その中で、大宮市にあった中島飛行機大宮製作所はアメリカ軍が設定した「エンパイア・プラン」と呼ばれる航空爆撃計画の一つとして第1攻撃目標に設定され、1945年(昭和20年)6月10日に第58航空団による精密爆撃が行われる予定だったが、当日の天候不順による視界不良やレーダー反応不良のため実施は見送られた。
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