相対的善
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:52 UTC 版)
このように「堕落」は、人格の三要素「知情意」のすべてに及んでおり、ここに人の持つ根源的課題があるとされる。ジャン・カルヴァンはこのように述べる。「キリスト者は神のかたちを帯びることによって神の子と認識されるように、彼らは堕落して帯びるに至ったサタンの像によって、サタンの子らとして、正当に見なされるからである。(第一ヨハネ3:8) ただし、一般恩寵があるので、ノンクリスチャン、異教徒が善を行なう能力をまったく失ったわけではなく、彼らも救いに至ることのない相対的な善を行なう能力は有している。魂が神から離れていることでは霊的死の状態は悪魔と変わらないが、人間である異教徒と御使いであった悪魔には相違がある。堕落した人間も、悪魔や悪霊ほどの腐敗の進捗は見られない。 『ウェストミンスター信仰告白』16:7は、新生していない者が神に命じられている事柄で、自分にも他人にも有益な善行を行ったとしても「その行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしい者にすることもできない。それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、いっそう罪深く、神を怒らせることである」と告白している。 これは「悪い者が耕すことは罪である。しかし、悪い者が耕さないことはもっと罪深い」と表現される。
※この「相対的善」の解説は、「全的堕落」の解説の一部です。
「相対的善」を含む「全的堕落」の記事については、「全的堕落」の概要を参照ください。
- 相対的善のページへのリンク