盛岡から上京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:20 UTC 版)
作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。 上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。 翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件が有ったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。 13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(東京大学の前身の一つ)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後、農学の道に進むことを決意した。
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