盛宮自動車以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/21 06:02 UTC 版)
山田線の開通により、その役目を終えて解散した盛宮自動車であったが、その沿線は常に閉伊川に寄り添い、路盤流失が絶えなかった。とりわけ、1946年に発生したアイオン台風では全線にわたって路盤が流失し、全面復旧が1954年と、8年もの年月を費やした。 その間、山田線の代替輸送を行ったのが、戦時統合により設立され、当時岩泉町に本社があった岩手県北自動車であった。この代替輸送によって岩手県北自動車は会社が軌道に乗り、地域住民の支持を集めることとなった。 一旦は盛岡 - 宮古間の代替バス路線は廃止となるが、1955年に急行バス路線として復活し、現在も106急行バスとして存続している。
※この「盛宮自動車以後」の解説は、「盛宮自動車」の解説の一部です。
「盛宮自動車以後」を含む「盛宮自動車」の記事については、「盛宮自動車」の概要を参照ください。
- 盛宮自動車以後のページへのリンク