的矢港の賑い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 09:05 UTC 版)
江戸時代には伊勢神宮の御厨ではなくなり、的矢村として志摩国答志郡国府組(こうぐみ)に属し、鳥羽藩の施政下に移った。水深が深かったため志摩国において的矢の港は鳥羽港に次ぐ良港とされ、江戸と上方を結ぶ菱垣廻船等が寄港する風待港として渡鹿野島とともに賑った。この頃、船宿と呼ばれる商店が軒を連ねたことから、「小伊勢」と呼ばれたことがある。的矢には大的矢と小的矢の2つの港があるが、当時は主として大的矢が利用された。文久元年(1861年)の記録によると、船宿は約40軒、置屋は約29軒あり、水上遊女と呼ばれた「はしりかね」も多数いたという。それぞれの港には日和山があり、樽廻船の船頭らによって方位石が設置された。現在の日和山にある方位石は再建されたもので、江戸時代の方位石は志摩市指定文化財として志摩市歴史民俗資料館で保存されている。 当時から的矢の産業は漁業が主体で、毎年2回「御屋之賄」と称して伊勢神宮に魚を献上していた。また漁業料は金子(きんす)で鳥羽藩に納めていた。 幕末には異国船打払令に従い、砲台と陣屋が築かれた。陣屋跡は的矢村神社になっている。
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