田園都市論と実際の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:50 UTC 版)
「エベネザー・ハワード」の記事における「田園都市論と実際の建設」の解説
重工業が発展するロンドンの、あまりの環境悪化と貧困の拡大を憂いた彼は、アメリカ・シカゴのガーデンシティー構想から刺激を受け、「都市と農村の結婚」を目指して1898年に「明日-真の改革にいたる平和な道 (To-morrow;A Peaceful Path to Real Reform)」を出版。1902年にわずかに改訂され「明日の田園都市 (Garden City of To-morrow)」と題名が改められた。 これは人口数万程度の限定された規模の、自律した職住近接型の都市を郊外に建設するものである。住宅は公園や森に囲まれ、農作業などをするスペースもある。豊かな者や貧しい者など、多様な家庭のための賃貸住宅があり、その賃貸は田園都市を運営する土地会社によって行われる。この資金を元手に、住民たち自身が公共施設の整備などをすすめるなど、住民によるコミュニティ形成もめざしたところが重要な点であった。 この理論は余りにも夢想的だと批判されたが、彼は現実に1903年ロンドン北郊のレッチワースに田園都市を着工し、住民を募集し、その運営を見事に軌道に乗せて見せた。第一次世界大戦後には二つ目の田園都市、ウェリンを作り、その後ドイツで建築家ヘルマン・ムテジウスやブルーノ・タウトらと接触し、彼らによってワイマール共和国時代のドイツ各地での住宅開発計画が進められた。ハワードは1928年没するが、レッチワースなどの成功はイギリス政府を刺激し、その後政府の手で30以上のニュータウン・コミュニティが建設された。
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