田代三千稔
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| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 | 1898年7月10日 |
| 死没 | 1984年2月4日(85歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学文学部 |
| 両親 | 田代謙三郎・モモエ |
| 子供 | 志村節子(長女) 田代淳(二男) |
| 学問 | |
| 研究分野 | 英文学 |
| 研究機関 | 法政大学 日本大学 横浜市立大学 鶴見大学 |
田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月10日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の英文学者、翻訳家、ラフカディオ・ハーン研究家。
略歴
旧制福岡県立東筑中学校、旧制第五高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業[2]。五高の同窓に劇作家の木下順二、帝大時代の同期生には作家の北村喜八がいた[2]。
1946年3月日本大学教授となり、同年10月には鎌倉アカデミアという特殊の教育機関の教授も兼ねた[2]。
横浜市立大学が横浜医科大学と統合した1952年4月には、かねてから親交のあった三枝博音学長から招かれて、教授に就任し、図書館長などの役職に就いた[3]。
1964年3月横浜市立大学を定年退職し[4]、その4月には開学2年目の鶴見女子大学(現・鶴見大学)の教授として赴任。以来12年間、英米文学科の文学関係の諸科目を担当。第2代英米文学科長を務め、1976年3月をもって大学を退職した[1]。
親族
兄は東洋レーヨン社長を務めた田代茂樹。長女は画家の志村節子[5]。二男は三井物産代表取締役副社長を務めた田代淳。
著書
- 『自由解放の詩人 バイロン』水谷書房、1946年。
- 『アメリカ近代作家論』水谷書房、1947年。
- 『愛と孤独と漂泊と 小泉八雲』月曜書房、伝記選書、1948年。
- 菅井準一共著『アメリカ技術史』天然社、1949年。
- 『概観イギリス文学史』南雲堂、1954年。
- 『イギリス名作物語』研究社出版、1956年。
- 『アメリカの作家たち / ハーンの世界』英宝社、1981年。
翻訳
- ラフカディオ・ハーン『日本の面影』愛宕書房、1943年。のち角川文庫、1958年。復刊 1989年。
- ロジャー・バーリンゲイム『アメリカ技術文化史』文松堂、1944年。
- リチャード・メーソン、佐々木峻共訳『風は知らない』英宝社、1949年。
- トマス・ハーディ『妻のために』英宝社、1950年。
- アーヴィング『スケッチ・ブック』日本評論社、1950年。
- ジヨン・ドス・パソス『世界戦線を往く』早川書房、1951年。
- 『ハーディ傑作選 第1 妻ゆえに』英宝社、1951年。
- 『ハーディ傑作選 第2 幻を追う女 / アリシアの日記』英宝社、1951年。
- 『アリシアの日記』『幻を追う女』角川文庫、1959 - 1960年。
- 対訳ラム姉弟(チャールズ・ラム、メアリー・ラム) 萩原文彦共訳注『シェイクスピア物語』南雲堂フイニックス・ライブラリー、1952年。
- 『奇談・怪談 対訳ハーン1』南雲堂フイニツクス・ライブラリー、1952年。のち新版。
- 『日本印象記 対訳ハーン2』南雲堂フイニックス・ライブラリー、1952年。のち新版。
- 『文学論 対訳ハーン3』南雲堂フイニツクス・ライブラリー、1958年。のち新版。
- 『スリーピー・ホロウの伝説 対訳アーヴィング』南雲堂フイニツクス・ライブラリー 1954年。
- ラフカディオ・ハーン『怪談・奇談』角川文庫、1956年。改版 1988年ほか。
- ラフカディオ・ハーン『続 怪談・奇談』角川文庫、1979年。
脚注
- ^ a b 鶴見大学紀要 第2部 (13) 1976, p. 193.
- ^ a b c d 鶴見大学紀要 第2部 (13) 1976, p. 194.
- ^ 鶴見大学紀要 第2部 (13) 1976, p. 194 - 195.
- ^ 鶴見大学紀要 第2部 (13) 1976, p. 195.
- ^ “画家 志村節子(4)父が翻訳したハーンの本 こころの玉手箱”. 日本経済新聞 (2022年2月25日). 2022年12月16日閲覧。
参考文献
- 『鶴見大学紀要 第2部 (13) 外国語・外国文学編』鶴見大学、1976年3月。
固有名詞の分類
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