田中正長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/28 14:03 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長19年(1614年) |
別名 | 石松、清六、清蔵、常秀 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→徳川家康 |
氏族 | 田中氏 |
父母 | 田中弥左衛門 |
子 | 田中正繁、田中宗親 |
田中 正長(たなか まさなが、? - 慶長19年(1614年)8月20日)は、戦国時代後期から江戸時代初期の商人。通称は清六。士農工商の身分が流動的な時代にあって、いわば「代官的豪商」、あるいは「豪商代官」として活躍した。豊臣秀吉、徳川家康とも密接な関係を持ち、徳川時代には一時は佐渡金山の代官を務めた。
略歴
正長は近江国高島郡田中下城村において、富商とされる父・弥左衛門のもとに生まれる[1]。幼名は石松[1]。6歳で母と離別、9歳で京都の法然寺に修行に出され、12歳で父が自害するなど幼少時はきわめて不遇であったという[1]。また、田中吉政と同じ一族だともいう[1]。
正長は天正7年ごろから、織田信長の鷹商として活動していたとみられ、鷹の名産として知られる奥羽地方に出入りしていた[2]。この時、南部氏や戸沢氏をはじめとする奥羽の諸豪族との関係を築いていった[2]。特に、天正10年(1582年)ごろ、南部信直が南部氏26代目当主になった。この時、正長は松前を経て野辺地から京都へ戻る最中であったが、このことを知ると、急遽三戸城を訪れ、信直に謁見した[2]。同年、本能寺の変で信長が横死し、信長の家臣であった豊臣秀吉が台頭してくると、秀吉に仕えた。その後、豊臣氏が全国政権化してきたとき、正長は信直に秀吉との関係を築くなら、前田利家に取次ぎを頼むとよいと進言し、信直は利家に良馬を送った。その後も、鷹商として、秀吉の意を受けて諸国を巡行し、さらに、情報収集や諸勢力への工作などにも従事する隠密的な役割をも担った[2]。
天正20年(1592年)豊臣秀次が京都の南部邸に鷹を所望した際、正長は鷹の受け取りを担当した。このように秀次からも信任を得ており、秀次の居城であった近江八幡城の留守居役を務めた[2]。文禄4年(1595年)、秀次が秀吉に切腹させられた秀次事件では、秀次と関係を持っていたが、田中吉政とともに、連坐を免れた[2]。
正長は奥羽の諸豪族と良好な関係を築いており、戸沢政盛から知行600石を与えられ、南部氏は正長の子・田中正繁に大迫地方を与えた[2]。さらに大迫の金山における産金の権利も与えられたようで、そこの金山の開発に正繁、正長が携わった[2]。
慶長以降、豊臣氏に代わり徳川家康が中央権力を掌握すると徳川氏との関係を深めた。慶長4年(1599年)、正長は北国における港の諸役御免の特権を与えられた[1]。さらに、慶長5年(1600年)、長束正家、増田長盛、前田玄以の三奉行からすべての港のにおける諸役御免の特権を与えられている[1]。同年7月7日、関ヶ原の戦いに先立ち、戸沢政盛や秋田実季、仁賀保挙誠ら奥州の諸大名へ、会津征伐への出陣を命じる使者を務めた[1]。さらに、領内の不穏を憂慮して、同年8月19日に南部利直、小野寺義道、六郷政乗に出陣を見直すよう命じる使者を務めた[1]。さらに、奥州だけでなく、使者として尾張・犬山城で西軍に属していた石川貞清と徳川家康の取次ぎを行った[1]。関ヶ原の戦いの後、敗れた大谷吉継の居城・敦賀城が家康の子結城秀康に与えられた際、敦賀城の代官を一時期務めた[2]。この時、敦賀に蔵屋敷を構えた。さらに、慶長6年(1601年)、正長は関ヶ原での働きの恩賞として上杉氏家臣であった河村吉久とともに佐渡金山の奉行の一人に任じられた[2]。佐渡奉行として、山主が1年単位で山を開発する制度から、採掘する日を決め、入札を行う競争入札制を採用した。その後、佐渡金山の規模が拡大したことにより、新たに吉田守貞と中川主税の2人が代官に加わった。しかし、慶長8年(1603年)守貞と主税は正長と吉久が帰国していた際、佐渡の農民に対して重税を課し、それに対して佐渡の領民が幕府に出訴した。これにより、守貞と主税は改易となり、正長と吉久は連坐して代官を罷免となった(慶長事件)[2]。その後、佐渡奉行には大久保長安が就任した。
その後は敦賀に商売の拠点を置き、廻船商人として日本海側の海運に携わった[1][2]。7隻ほど千石船を持っていたとされ、慶長事件に巻き込まれたものの、港の諸役免除の特権は保持していた[1]。慶長19年(1614年)8月20日、大坂の陣を前にして没した[1][2]。
正妻はなかったが息子が2人おり、長男の正繁は二代清六を襲名した。次男は出家し、清水寺宝性院僧都の宗親となった。
子孫
- 長男の正繁の子孫は代々敦賀に住み、商人となった。江戸時代には住友家と養子のやり取りをするなど豪商としての地位を維持した。
- 詳細は不明ながら、盛岡藩の田中家は正長の子孫もしくは関係者とされる。
- 幕末の会津藩家老田中玄宰で著名な会津藩家臣の田中家は、北畠流村上源氏の田丸氏の子孫を称しているが、初代の田中正玄は佐渡金山の奉行、田中清右衛門正長の息子という。
注釈
出典
- 『初期豪商田中清六正長について』(村上直/1968年 法政史学第二十号)
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