甗(げん)の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 04:37 UTC 版)
「桓公の後継者争い」の記事における「甗(げん)の戦い」の解説
甗 臨淄(中国語版、英語版) 斉の首都臨淄(中国語版、英語版)と戦場となった甗の位置を示す山東省の地図 斉侯無詭の死の情報が広まるにつれて、姜昭の公位継承が避けられなくなったと思われたため、曹・衛・邾は斉から軍を撤退させた。しかし実際には、姜昭の確実な公位継承者としての地位はまだ確保されていなかった。姜昭が即位しようとしたとき、姜潘・姜商人・姜元・姜雍は支持者とともに臨淄に戻り、姜昭の派閥を攻撃した。したがって、姜昭の兄弟が宮廷を支配し、姜昭に対して同盟を結んだ。姜昭は再び臨淄から逃げることを余儀なくされた。姜昭はまだ宋軍と共に斉に残っていた宋の襄公の元に亡命し、援助を求めた。一方、姜潘・姜商人・姜元・姜雍の連合軍は、斉から宋の軍隊を追い払うために臨淄から打って出た。甗(げん、現在の山東省済南市歴城区)で2軍は相対し、宋軍が決定的な勝利を収めた。姜潘・姜商人・姜元・姜雍は斉から逃亡し、宋の襄公は臨淄で姜昭を即位させた。それ以降、姜昭は斉の孝公と呼ばれるようになった。後継者争いは一旦の収束を迎えたため、宋の軍隊は帰国した。 しかしながらも、姜潘・姜商人・姜元・姜雍らの支持者は依然として活動的であり、新たに即位した孝公に対して陰謀を企て続けた。甗での敗戦後まもなく、姜潘・姜商人・姜元・姜雍を援助するために北狄は斉を侵略し、荒廃させた。しかしこれは孝公の勢力を弱めるには不十分であり、斉は再び安定した。北狄の攻撃の後には、斉の国内は落ち着いた状態になり、故桓公は死後数か月で適切な儀式を行われ、最終的に埋葬された。
※この「甗(げん)の戦い」の解説は、「桓公の後継者争い」の解説の一部です。
「甗(げん)の戦い」を含む「桓公の後継者争い」の記事については、「桓公の後継者争い」の概要を参照ください。
- 甗の戦いのページへのリンク