王禎_(北魏)とは? わかりやすく解説

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王禎 (北魏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 20:27 UTC 版)

王 禎
各種表記
漢字 王 禎
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: おう てい
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王 禎(おう てい、476年 - 514年)は、中国漢王朝武帝紀元前108年朝鮮半島に設置した植民地楽浪郡で勢力を張った中国系豪族楽浪王氏出身の北魏官僚[1]官位は「員外散騎侍郎」。は「宗慶」。514年4月10日洛陽永康里で死亡。前燕の「儀同三司 武邑公」を務めた王波の六世の子孫[1]

人物

1929年、王禎の墓誌洛陽護駕荘から出土しており、墓誌は西安碑林博物館が保管している[1]

高祖父・王班(王礼班)は、後燕の「散騎常侍」「平西将軍」「給事黄門侍郞」「晋陽侯」を務めた[2]。曾祖父・王定国は、北魏の「庫部給事」「冠軍将軍」「河内太守」「幷州刺史」「博平男」を務めた[2]。祖父・王唐成は、北魏の「広武将軍」「東宮侍郞」「合肥子」を務めた[2]。父・王光祖は、北魏の「寧遠将軍」「徐州長史」「淮陽太守」「司州中正」「晋陽男」を務めた[2]

北魏西魏政治家である宇文泰母親明徳皇后と兄の王盟は楽浪王氏であるが、王禎の六世の祖・王波と祖を同じくするため、明徳皇后、王盟、王禎は同じ家門親族である[1]。王禎一族は、代々北魏から爵位を与えられた官職従事者であり、北魏皇室とも婚姻を結ぶことができた名家だった[1]

一族が朝鮮から中国に移住した時期は詳らかではないが、高句麗の攻撃に苦しんでいた王遵が楽浪郡民1000余家を率いて慕容廆に帰投した歴史と関係があり、432年太武帝遼西に親征し、北燕軍を撃破、営丘、成周、遼東、楽浪、帯方、玄菟の3万余家を幽州に移したため、楽浪郡遺民が大挙して北魏に移住しており、一族もこの頃に北魏に帰投したとみられる[1]。一方、六世の祖・王波は、前燕の「儀同三司 武邑公」を務めているため、楽浪郡滅亡前後に中国に移住している、という指摘もある[3]

王禎の墓誌は、一族が中国殷王朝の政治家・箕子の後裔であることが記されている。すなわち、殷王朝に箕子比干微子啓の三人の忠臣がおり、中国周王朝武王箕子を朝鮮に封じたために姓を王氏とした、と記録されている[1][3]

脚注




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