独立路線の規定事実化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 10:08 UTC 版)
「クロアチア紛争」の記事における「独立路線の規定事実化」の解説
90年12月に、新しいクロアチア共和国憲法が制定された。この憲法の中でクロアチアの自決権と国家主権が規定し直され、公用語をセルビア・クロアチア語からクロアチア語に変更し、キリル文字の使用を禁止し、ラテン文字を使用することと規定された。 一方で、90年後半からクロアチアの軍事力の整備が急がれ、クロアチア警察軍(英語版)が創設された。大量の武器は、ハンガリーから輸入されたと見られている。 1991年3月2日には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区(英語版)→クライナ・セルビア人自治区(英語版)、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州)をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍(英語版)が対峙する事態となり、3月31日にプリトビツェ湖群で両者が衝突して死者を出した(プリトビツェ湖群事件(英語版))。 1991年5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%がクロアチアの独立に賛成した。ただし、セルビア系住民の大部分が投票をボイコットしたため、投票率は84%にとどまった。これを受けて6月25日にクロアチアはスロベニアと同日にユーゴスラビアからの独立を宣言した。
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