独立議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/17 00:38 UTC 版)
日露戦争中の明治37年(1904年)から明治38年に日本基督教会のミッションから独立の問題が起こった。本来、日本基督教会は、長老系の複数のミッションと個別に協力関係を結んでいた教会であった。それゆえに、各ミッションとの関係の調整は困難を極めていた。それが、日露戦争勝利後に日本が列強に並ぶ地位を獲得すると、ミッションとの関係が好転してきた。 明治39年(1906年)に行われた第20回大会で、井深梶之助、ウィリアム・インブリー、植村正久の三人が「協力ミッション法」を決議した。この法はミッションの伝道事業は日本基督教会の大会伝道局との緊密な関係の元に行われることそして、ミッションの事業を日本基督教会が管轄する権利を有することの二点である。この二点を承認するように各ミッションに要請した。米国北長老教会西部ミッション、合衆国・ドイツ改革派教会、米国北プレスビテリアン東部ミッションがこれらを承認し協力ミッションになった。 しかし、これらを承認しないミッションが二つあったので、明治42年(1909年)の第23回大会で「非協力ミッション関係解決法」に従い「申合ミッション」として、日本基督教会の既往の友誼関係を継続しつつ、宣教地の住み分けを行った。
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