独立大名に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/31 02:01 UTC 版)
また同年中に秀吉が惣無事令を理由に、主君・那須資晴とその対立関係にあった宇都宮国綱の双方に対して停戦命令を出した。この時那須氏を代表して使者となって上洛した晴増は、秀吉に通じる利を悟ったという。翌年に秀吉の小田原征伐が始まると、晴増は父・高増と共に秀吉の下に参陣して3,000石を加増され、既に領していた10,000石と合わせて13,000石を安堵された。一方、中立の姿勢を取った那須資晴は秀吉の怒りを受けて改易処分となった。この時点で大関氏は那須氏から自立した独立大名となった。浅野長政に属して成田氏長の忍城を攻めた時にも戦功を挙げた。 文禄の役では名護屋城まで出陣したが、やがて病を得る。嫡男・政増が幼少であることを憂慮して弟・資増に家督を譲り、程なく病死した。享年36。
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