熊もいなければ森もない
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/06 07:52 UTC 版)
「 エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23) 」 『列王記下』の記述を単純に読む限りでは、子供たちが「עלה קרח」(新共同訳:「禿げ頭、上って行け」)と言ってエリシャをからかったのは、彼の外見上の特徴を見たからだと受け取れる。だが、一部の注釈家たちによれば、子供たちはエリシャが自分たちの町の収入源をהקריח(禿げさせた、不毛にした)から、このような野次を飛ばしたと解説している。つまり、エリシャによって水を清められるまで、エリコの住民は彼らの町から水を買っていたというのである。また、エリシャの業績が忠実に『列王記下』の記述に反映されているならば、彼がエリヤと死別したのはまだ青年期の頃であったと推定される。よって、その直後に浴びせられた子供たちの野次は、彼の容姿には関係なかったとも考えられるのである。 一方のエリシャは、この発言に対して次のような行動で応えている。 「 エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24) 」 一見したところ、この恐ろしい出来事は預言者の振る舞いとしては到底相応しくなく、また、子供たちが受けた罰も、その罪と比較して釣り合いが取れているとは思えない。 ハザルもその注釈において、預言者のこの行動に不快感を隠せないでいる。一方、『バビロニアン・タルムード』(マセヘット・ソター 46.1)では、エリシャは預言者としての生涯の中で三つの過ちを犯したと述べている。それは、熊に子供たちを襲わせたこと、従者ゲハジを破門したこと、そして彼自身の死であると。 エリシャは旧約聖書の登場人物の中でも、とりわけ魅力のある人物の一人とされているのだが、それは預言者らしからぬ人間的な苦悩を背負いながらの人生であったことが描写されているからであろう。ハザルの注釈においても彼の業績に対しての反論は決して単純なものではなく、いずれにせよ預言者としての彼の聖性を義認しているのである。
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