烏質勒の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 02:30 UTC 版)
初め、烏質勒は西突厥の可汗(カガン)阿史那斛瑟羅に隷属し、莫賀達干(バガ・タルカン、Baγa Tarqan:官名)と号していた。斛瑟羅の政治が冷酷なため、民衆はこれに心服していなかったが、烏質勒が配下の者をよく撫でて威信があったため、諸胡(ソグド人などの西方民族)は彼に付き従い、勢力が次第に大きくなっていった。烏質勒はその下に20人の都督を置き、それぞれに7千人の兵を統率させ、碎葉(スイアブ)の西北に駐屯した。やがて碎葉を攻撃して手に入れると、牙帳を移してここに居をかまえ、碎葉水を大牙とし、弓月城・伊麗河(イリ川)を小牙とした。その領域は東北が東突厥と、西南が諸胡(昭武九姓)と、東南が西州(トルファン)・庭州(ビシュバリク)と隣接した。 699年、烏質勒は子の遮弩(シャド)を周(武周)に入朝させため、武則天より厚く尉撫を加えられた。 700年、可汗の斛瑟羅は周に入朝して左衛大将軍兼平西軍大総管を拝命したが、支配下の部衆が烏質勒の侵略を受けて弱小になってしまったので、領地へ帰ろうとはしなかった。そのため、彼の支配領域はすべて烏質勒に併合されてしまった。 706年春、烏質勒が懐徳郡王に封ぜられることが決定された。12月、烏質勒は安西大都護の郭元振と軍議をしていたが、厳しい風雪と老齢のため、死去してしまう。中宗は詔によって烏質勒を懐徳郡王に封じるため、御史大夫の解琬を烏質勒のもとへ赴かせて冊立させようとしたが、すでに烏質勒が死去していたので、烏質勒の子である娑葛を嗢鹿州都督・左驍衛大将軍とし、父の封爵を襲名させた。娑葛のこの時の兵力は30万。中宗はあらためて娑葛を金河郡王とし、後宮の婦人4人を賜った。
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