濱口梧陵手記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 10:05 UTC 版)
『濱口梧陵手記』に記された概要は以下の様なものであった。 十一月四日(1854年12月23日)四つ時(9時過頃)に強震(安政東海地震)があり、震い止んだ後海岸で異常な潮の動きがあり黒い高浪が現れた。大震の後は海嘯が来るとして、村民らを八幡宮へ避難させた。 五日(1854年12月24日)になり、海面が穏やかとなったため村民らは家に戻った。午後に村民2名が井戸の異常な水位低下を訴え出、何か地異が起るのではと恐れていた処に夕方七つ時頃(16時半頃)大震動があり暫くして静まった。村内を巡視する際、西南方向から巨砲を連発するような響きが数回あり、海岸に行った処未だ異変が認められなかったが、心を休める遑もなく、怒涛早くも民屋を襲うと叫びがあり、疾走するなか激浪が広川を遡り人家が崩れ流れていくのが見えた。自らも瞬時に潮流に半身を没し辛うじて丘陵に漂着すると、背後には押流される者、流材に身を寄せる者と悲惨な光景が広がっていた。 一旦八幡宮に行くと悲鳴を揚げて親、子、兄弟を捜す声が溢れ、日が暮れ壮者十余名とともに松明を焚いて救助に向かうも流材が道を塞ぎ歩行を妨げていたが、十余の稲むらに点火して安全な地を表示した処、これを頼りに万死に一生を得た者が少なくなかった。暫くして八幡神社近くの一本松に引き上げた頃に最大の激浪が襲来し、火のついた稲むらが漂い流されていく様子を見て天災の恐るべきを感じさせられた。
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