潮音道海とは? わかりやすく解説

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潮音道海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/01 13:01 UTC 版)

潮音道海(ちょうおん どうかい、1628年11月10日 - 1695年8月24日)は、日本の禅僧。黄檗宗隠元木庵に師事し、のちに黄檗宗黒瀧派(緑樹派)の派祖となる。黒瀧山不動寺、中興の祖。別名、黒瀧潮音。号は、南牧樵夫。神道への関心が深く、大成経の出版にかかわった。

生涯

(おもに『黒瀧潮音和尚年譜』にもとづく)

寛永5年(1628)、肥前(佐賀県)小城郡に生まれる。父は楠田氏、母は前田氏。5歳のとき母を亡くし、祖母に育てられる。9歳で読み書きを習いはじめ、13歳で出家。

正保1年(1644)、17歳。良師を求めて密かに寺を出る。筑後で一冬過ごしたのち、正保2年、商船に乗って京都に出る。広く儒典を学ぶ。摂津で「大慧書」を学び、越前で「六祖壇経」を聴く。仏教界の現状を嘆き、中国元時代の僧・中峰明本の禅風を慕う。

正保3年(1646)、19歳。中峰の流れをくむ一糸文守に会いに、近江(滋賀県)の瑞石山永源寺を訪れる。しかし、一糸はすでに亡く、後継の如雪[1] に師事する。「実参実悟」という、坐禅に徹した修行をはじめる。慶安4年(1651)、24歳。夏、七日間不眠の坐禅行をおこない、得るものがあったという。

承応3年(1654)、27歳。10年ぶりに帰郷。隠元が来日すると、長崎の興福寺で謁するが、認められず、不遜な言葉を残して永源寺に戻る。[2]

万治2年(1658)、32歳。洛北、賀茂の「定林庵」で仲間と修業をはじめる。梅嶺道雪も参加。賀茂神社に参り、神道に関心を持つようになる[3]。万治3年(1659)、33歳。最初の著書『観音感通伝』を全国66ヶ所の観音霊場に配る。美濃(岐阜県)の萬亀山臨川寺で、はじめて住持となる。鎮守として賀茂神社を勧請する。その後、近くの大慈山小松寺の復興を請われ、弟子の道林を派遣する。

黄檗山

寛文1年(1660)、34歳。禅宗の史伝書『五燈巖統』を読んで隠元の真価を悟り、前非を悔いて黄檗山に登る。独湛性瑩のとりなしで参堂を許される。木庵らの指導を受ける。寛文2年、伊勢神宮に参詣[4] 。寛文3年、隠元から法名「潮音道海」を拝受。寛文4年、「知客」に任じられる。

寛文5年(1665)、38歳。黄檗山の二代目となった木庵が将軍に挨拶するため、江戸に出る。潮音はそれに随行。諸侯と交流し、池田秀峰、黒田泰岳の帰依を受ける。寛文6年、江戸「大慈庵」 [5] に迎えられる。栄三尼が参る。土井大炊頭夫人(緑樹院夫人)[6] に求められ『霧海南針』を著す。

寛文7年(1667)、40歳。荒廃していた上州(群馬県)の眞福山宝林寺[7] に進山し、再建する。評判を聞いた館林藩城代・金田正勝は、潮音を招いて法苑を開く。寛文9年(1669)、金田らは藩主綱吉に進言し、館林城の西に「万徳山広済寺」を建立[8]。木庵を開山祖、潮音を第二代として招請する。

寛文10年(1670)、43歳。『聖徳太子十七条憲法註』を版行[9]。 寛文11年、青木瑞山が江戸白金に紫雲山瑞聖寺を建立。潮音は西堂を務める。木庵から印可を受ける。寛文12年、緑樹院夫人が23歳で没す。

延宝1年(1673)、46歳。隠元が死去。潮音は黄檗山に登り、喪に服す。その帰途、黒滝山の岩窟で修行していた「高源」が弟子になる。延宝2年、大慈庵が深川に移転。鍋島綱茂[10]が黄檗山内に塔頭「緑樹院」を建立する。[11]

大成経の出版

延宝3年(1675)、48歳。潮音の『十七条憲法註』を読んだ「池田逸士」に、『聖徳太子釈氏憲法』[12]のことを聞かされる。「京極氏」から『旧事本紀大成経』のことを聞き、その中に『憲法本記』があることを知る。『大成経』正部四十巻を借りる。その後、「長野氏」から『大成経』の正部雑部七十二巻を借りて書写する[13]。『神教経』『宗徳経』『聖皇本紀』『憲法本記』を版行する。

8月、高源が、黒瀧山に潮音を迎え、説法の会を開く。三千人集まる。黒瀧山の開山に招請される。このころ、浅間山の噴火で人々が苦しんでいることを聞き、仏像を安置して住民を救いたいと発心する。延宝4年(1676)、49歳。春、館林城で「憲法本紀」を講ず。城中に井戸が湧き出て「青龍権現」が現れたという。浅間山で普賢堂の跡が見つかる[14]。普賢菩薩の銅像を鋳造する。

延宝5年(1677)、50歳。普賢菩薩の開眼法要。普賢行願品の講話会を開く。衆を率いて浅間山山頂に登り、施食文を誦んで祈願する。噴火は静まったという。その後、黒瀧山に登り、真寂塔と禅堂の開眼法要。故郷の師、泰雲が死去。供養のため弟の月浦[15] を遣す。法華経を血書する。延宝6年(1678)、江戸神田の邸で綱吉に謁見し、『万徳開堂録』を呈する。『坐禅論』を著す。

延宝7年(1679)、52歳。「村上氏」に請われ、潮音が所持する『大成経』正部(四十巻)を刊行する[16]。隠元の七周忌のため黄檗山に向かう。帰路、熱田神宮に参る。延宝8年(1680)、53歳。2月、再び、黄檗山に赴き、帰路、紀州を経て伊勢三宮に参る。8月、綱吉が第五代将軍となる。桂昌院から潮音へ「金帛」が贈られる。9月、『大成経破文』という批判文書が刊行される。

天和2年(1682)、55歳。冬十月、伊勢神宮の神官が「大成経を忌み嫌い」、官府に訴える。寺社奉行は出版者をとらえ、版木を滅する。本多城司はこれを告げ、潮音は門を鎖し蟄居する[17]。 蟄居中、『大成経破文答釈論』を書き、反論する。12月、開門される。

天和3年(1683)、56歳。木庵が病気だというので、江戸に来ていた独湛とともに黄檗山に向かう。木庵は恢復する。帰路、住吉神社、大神神社などをまわる。5月、綱吉の長男、徳松が5歳で亡くなる[18] 。6月、館林城の取り壊しが決まる。重臣たちは江戸に移動。潮音は広済寺を辞すことを望む[19]。 はじめ、補陀山大円寺[20] に入るつもりだったが、高源たちに請われて、7月、黒瀧山不動寺に入る。三年間の禁足を宣言する。

黒瀧山

貞享1年(1684)、57歳。1月、木庵が亡くなったため、禁足を破り、黄檗山に登る。77日間喪に服し、4月、黒瀧へ帰る。「南牧樵夫」と号す。貞享2年(1685)、58歳。画工の陳玄興に自分の肖像画を描かせ「七師七友」と題す。鍋島元武(金栗)が、小城に祥光山星巌寺[21]を創建する。潮音は開山となる。浅間山普賢寺に祖堂を建てる。

貞享3年(1686)、59歳。信州に向かい、ゆかりのある寺を巡回する。善光寺戸隠神社をまわる。普賢寺の祝国開堂をおこなう。黒瀧山に「六社明神」を総鎮守として勧請する[22]。江戸から80歳の栄三尼がやってくる。

貞享4年(1687)、60歳。将軍綱吉が漁猟を禁じたことを喜ぶ。林羅山の書を読んで異議があり、『扶桑護仏神論』を著す。60歳を祝うため弟子が集まる。綱吉42歳の厄を祓う。元禄1年(1688)、61歳。黒瀧山の岩窟に弁財天の石像を建立。熊沢蕃山の書を閲て『催邪論』を著す。元禄2年、栄三尼が大蔵経を納める。

元禄3年(1690)、63歳。法歴50年を記念して「寿塔」が建てられる。僧梅堂に訴えられ寺社奉行に出頭[23]。元禄4年、独湛に、代付、返法、官訴について意見書を送る。亀田祖厳が梵鐘を喜捨。「黒瀧一派禁約」を作成。元禄5年、黒瀧山で授戒会を行い、千人以上が集まる。祝国開堂を行う。元禄6年、「黒瀧宗派簿」を作成。末寺200余りの「黒瀧派」結成。大仏殿(大雄宝殿)を建て始める。元禄7年(1694)、67歳。大仏殿が落成。年末、潮音は体調を崩す。

元禄8年(1695)。1月、隠元23回忌のため、黄檗山に向かう。「末期の行脚」と覚悟を述べる。3月、伊勢三宮に参る。宿屋で、参勤交代中の鍋島元武に会う。黄檗山からの帰路、伊吹山松尾寺を開山。竹生島弁財天に参る。

6月、美濃の萬亀山臨川寺に到着。堂の改築を許し、しばらく逗留。7月、大慈山小松寺を訪れる。8月、旧病が再発する。手足きかず遺偈を代筆させる。68歳で示寂。遺骨は分骨され、臨川寺と黒瀧山に納められた。開山した寺は20余り、門人63人、受戒10余万人。


伝記資料


著書

  • 『指月夜話』
  • 『潮音禅師語録』
  • 『観音感通伝』
  • 『霧海南針』[25]
  • 『十七条憲法註』[26]
  • 『大成経破文答釈論』
  • 『五瀬三宮二社鎮座本紀』
  • 『聖徳太子五憲法事実』
  • 『坐禅論』
  • 『聖胎長養禄』
  • 『扶桑護仏神論』
  • 『摧邪輪』
  • 『信心銘要』
  • 『辨財天三経略疏』
  • 『南牧山居詩』
  • 『南牧樵夫百吟集』


参考文献

  • 『緑樹』正満秀利 、潮音禅師三百年遠諱大法会記念誌、平成6年。(「黄檗の傑僧 潮音道海禅師」「派祖潮音禅師を探して」「著書解題」「法系図」など)。1994。
  • 『黄檗文化人名辞典』大槻幹郎・加藤正俊・林雪光、思文閣出版、1988年。
  • 『初期黄檗派の僧たち』木村得玄、春秋社、2007年。
  • 河野省三『旧事大成経に関する研究』、芸苑社、昭和27年。(「四、大成経の著作者と祖述者」)1952。
  • 久保田収「「旧事大成経」成立に関する一考察」(『皇学館大学紀要』6号)1968。
  • 荻須純道「潮音道海について」(『龍谷史壇』第66・67号、昭和48年12月)1973。
  • 小笠原春夫「黒滝潮音の年譜を廻る一考察」(『神道宗教』147号、平成4年6月)1992。
  • 『群馬県史・通史編 6』p.653。1992。

脚注

  1. ^ 如雪文巖(にょせつぶんがん)、『黄檗文化人名辞典』p295。
  2. ^ 隠元はその後大阪に移り、万治元年(1656)、江戸で将軍家綱に謁見。京都の宇治に土地が与えられ、黄檗山萬福寺が建立される。
  3. ^ 『緑樹』p41。
  4. ^ 潮音は生涯で三度、伊勢神宮に参詣している。
  5. ^ 潮音のために建てられた小庵。
  6. ^ 鍋島光茂の娘、仙姫。土井利重に嫁ぎ江戸に住む。このとき17歳。『葉隠』巻五に登場する。
  7. ^ 中峰の法孫大拙祖能が開いた。
  8. ^ 綱吉は江戸に住んでおり、このとき24歳。
  9. ^ 『日本書紀』にある十七条憲法に片仮名の註を施したもの。『指月夜話』巻六「要伝神道」。小笠原春夫「黒滝潮音の年譜を廻る一考察」p5。
  10. ^ 仙姫の弟。
  11. ^ 延宝3年、江戸にて、佐賀本藩第三代藩主・鍋島綱茂(活水)、小城藩第二代藩主・鍋島直能(星巌)、同三代・鍋島元武(金粟)の三人が、たびたび、潮音を桜田の藩邸に招く。
  12. ^ 『憲法本記』にある「五憲法」の一つ。
  13. ^ 『指月夜話』巻六、「要伝神道」。
  14. ^ 正満英利「浅間山普賢寺の開創と道閑和尚」(『黄檗文華』96号)。
  15. ^ 月浦元照(げっぽげんしょう)、『黄檗文化人名辞典』p102。
  16. ^ 最初、時期尚早として断ったが、再三の要請により許可した。
  17. ^ 寺社奉行が真偽を判断せず、無許可出版の咎での処分。「冬十月、伊勢神職の輩、大成経を忌み嫌ひ、これを官府に訴ふ。僧官、眞偽を決せず、官に聞こえざる梓行を懲す。剞劂氏を勒し、其の版を滅す。本多城司これを告ぐ。師、門を鎖して蟄居す。」、・剞劂氏(きけつし):版木を彫る人、・勒(ろく):くつわ、おさえる。・梓行(しこう):書物を出版すること、「冬十月」「伊勢神職輩」「忌嫌大成経」「訴之官府」「僧官不決眞偽」「懲不聞官梓行」「勒剞劂氏」「滅其版」「本多城司告之」「師鎖門蟄居」
  18. ^ このとき、徳松は館林藩の藩主。
  19. ^ もともと「官寺」の不自由さを感じていたという。 (五月二十八日、徳松君薨る。六月、館林城を堕すの令あり。)(師、かつて官寺を厭う志あり。官府に萬徳を辞すを聞く。)、「五月念八徳松君薨」「六月有堕館林城之令」「而降其臣禄大者移江府」「其僚属百石以下蓋貶禄」「師曽有厭官寺之志」「聞官府辞萬徳」「始欲入補陀」「高源泉心源等諸檀護」「投誠請住黒瀧」
  20. ^ 上州吾妻郡大戸の補陀山大円寺。(正満英利「隠棲の地に選んでいた「補陀山」」、『黄檗文華』96号)
  21. ^ 星巌寺(小城市観光協会)
  22. ^ 『緑樹』p58。
  23. ^ 正満英利「隠棲の地に選んでいた「補陀山」」(『黄檗文華』96号)。
  24. ^ 「要伝神道」は、331コマ目。国会図書館にも写本(6冊)あり。
  25. ^ 『禅門法語集 続』
  26. ^ 『聖徳太子全集 第1巻』p343

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