潜伏と指名手配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/16 16:51 UTC 版)
「ルイス・バカルター」の記事における「潜伏と指名手配」の解説
1936年10月、シュルツの死やルチアーノ摘発に飽き足らないニューヨーク州特別検察官トーマス・デューイは、バカルターを公共の敵と非難し、その傘下の強請団を摘発することに成功した。 一方、連邦検察及びFBIは1932年にバカルターのギャング団を取り逃がして以来ずっとバカルターを追いかけていたが、1936年11月、シャピロと共に毛皮産業の独占支配の容疑で告訴した。反トラスト法違反で2年刑の有罪となったが、1937年3月上訴して無罪となった(シャピロは有罪のまま)。その後、反トラスト法違反で再起訴された時に出廷せず、保釈金を放棄してシャピロと共に逃亡した。8月、デューイに2500ドルの懸賞金をかけられ指名手配された。11月、連邦検察は2500ドルの懸賞金をかけたが、程なく5000ドルに上げ、これに呼応するようにデューイも懸賞金を2倍にしたため、11月末までに連邦検察と州検察(デューイ)の懸賞金が合わせて1万ドルに達した。ニューヨークのヘロイン密輸団を独自に内偵していたFBNが、同年12月、バカルター含む総勢31人を麻薬取締法違反で告発した。 FBNからヘロイン密輸、連邦検察から反トラスト法違反(ガーメント地区の産業支配)、ニューヨーク州マンハッタン検察からガーメント地区の組合強請や殺人、更にニューヨーク州ブルックリン検察から殺人共謀と、4つの司法捜査当局から同時に追いかけられた。 公共の敵となって以来、自分を有罪にする恐れのある関係者、元関係者を次々と消していった。1939年7月までに6人が殺され2人が失踪していた。潜伏中ニューヨークを離れたとも国外脱出したとも囁かれたが、実際はブルックリンの隠れ家やアジトを転々としていた。
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