滋賀県政に参加
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1879年(明治12年)4月20日、第一回県議会が大津南町顕證寺において開かれ、逸治郎は第一回選出滋賀県会議員64名の一人として参加した。これ以降、1892年(明治25年)4月に行われた選挙まで連続当選を果たした。 翌年1880年(明治13年)6月第二回県会議員に当選した後、同年12月22日に開催された臨時県会において、互選により初代常置委員7名の内の一人に選ばれた。なお、これより明治24年に県議会議長に就任するまで逸治郎は常置委員に選ばれ続けると共に、出納委員・地方衛生会員・商業学校商議員 などの要職を歴任した。 1891年(明治24年)11月17日、通常滋賀県会が開会し逸治郎は第八代滋賀県議会議長に就任以後2期議長を務め、1892年(明治25年)8月17日より翌年6月7日までの間滋賀県立商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)学校長も務めた。 1894年(明治27年)3月8日、第3回衆議院議員総選挙に自由党公認候補として当選。これに伴い県会議員職を辞任。第4回・第6回衆議院総選挙にも立候補するが、次点にて落選。自ら60歳を境に隠居し、「想外」と号した。
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