浄閑茂次と義周の関係
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『寛政譜』によると松平又十郎親春の妻は三浦五郎左衛門茂次の娘であり、『一話一言』によると松平又十郎は義周の妹婿であるから、両書によれば、義周は茂次の子で、自身の娘(実は養女)である安祥院を妹婿の養女にしたことになる。 また『断家譜』によると、旗本・水野守正の妻は「〔浪人〕三浦五郎左衛門〔改浄閑〕茂次女」で名前を「藤」といい、その子・浦次郎(浄心の曾孫にあたる)は正徳4年(1714年)に家督を継いで250俵・小普請となったが、その後、無嗣断絶となった。家が断絶した後、藤は「三浦五郎左衛門義周」のもとで暮らし、宝暦2年(1752年)に没している。 馬場文耕『近代公実厳秘録』は、三浦義周が幕臣に取り立てられた経緯を、三浦五郎左衛門は吉原の遊女屋・三浦屋四郎左衛門の弟で、美女を奥勤めさせていたところ、たまたま家重の目に止まって云々、と紹介しているが、大田南畝『一話一言』は、三浦屋四郎左衛門の弟とする説を否定し、三浦義周は筋ある浪人だとして、その出自について詳述している。 それによると、三浦義周は、三浦介義澄の遠孫で、元弘・建武年間に民間に零落したが、三浦の郷士として続いた家の出身で、家康の関東入国のとき、三浦氏の支族・石井氏の石井四郎左衛門とともに江戸にやって来た。石井は町人となって南畝の時代まで商売で成功していたが、義周の家は町人となることを嫌って浪人を続け、享保のはじめに飯田町の五百石・寄合衆「鵜殿内記」の屋敷を借りて普請をし、旗本衆と交流して友人が多かった、という。 『寛政譜』によると、鵜殿内記長証(ながあきら)は鵜殿藤助長明(ながあきら)の養嗣子で、実父は竹村九郎右衛門嘉敦、母は三浦五郎左衛門茂次の女である(鵜殿内記長証は浄心の曾孫にあたる)。鵜殿長証は享保元年(1716年)10月、同年6月に死去した亡父・長明の跡を継ぎ、徳川吉宗に仕えた(正徳5年の家譜が記された翌年の出来事)。また、その子孫・長善が死去した後、養嗣子となった長称(ながまさ)は、三浦義周の子・義如の女と結婚している。なお、鵜殿氏の先祖の鵜殿藤助長次は督姫の叔父にあたり、督姫が天正11年に北条氏直に嫁いだとき、これに随伴し、後北条氏滅亡まで小田原で暮らしていた。
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