浄閑茂次と義周の関係とは? わかりやすく解説

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浄閑茂次と義周の関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:26 UTC 版)

三浦浄心」の記事における「浄閑茂次と義周の関係」の解説

寛政譜』によると松平又十郎親春の妻は三浦五郎左衛門次の娘であり、『一話一言』によると松平又十郎は義周の妹婿であるから、両書によれば、義周は茂次の子で、自身の娘(実は養女)である安祥院妹婿養女にしたことになる。 また『断家譜』によると、旗本水野守正の妻は「〔浪人三浦五郎左衛門〔改浄閑〕茂次女」で名前を「」といい、その子・浦次郎浄心曾孫にあたる)は正徳4年1714年)に家督継いで250俵・小普請となったが、その後、無嗣断絶となった。家が断絶した後、は「三浦五郎左衛門義周」のもとで暮らし宝暦2年1752年)に没している。 馬場文耕近代公実厳秘録』は、三浦義周が幕臣取り立てられ経緯を、三浦五郎左衛門吉原遊女屋三浦屋四郎左衛門の弟で、美女奥勤めさせていたところ、たまたま家重の目に止まって云々、と紹介しているが、大田南畝一話一言』は、三浦屋四郎左衛門の弟とする説を否定し三浦義周は筋ある浪人だとして、その出自について詳述している。 それによると、三浦義周は、三浦介義澄遠孫で、元弘建武年間民間零落したが、三浦郷士として続いた家の出身で、家康関東入国のとき、三浦氏支族石井氏石井四郎左衛門とともに江戸にやって来た。石井町人となって南畝時代まで商売成功していたが、義周の家は町人となることを嫌って浪人続け享保はじめに飯田町五百石寄合衆鵜殿内記」の屋敷借りて普請をし、旗本衆と交流して友人多かった、という。 『寛政譜』によると、鵜殿内記長証(ながあきら)は鵜殿藤助長明ながあきら)の養嗣子で、実父竹村九郎右衛門嘉敦、母は三浦五郎左衛門次の女である(鵜殿内記長証は浄心曾孫にあたる)。鵜殿長証は享保元年1716年10月同年6月死去した亡父長明の跡を継ぎ徳川吉宗仕えた正徳5年家譜記され翌年出来事)。また、その子孫・長善が死去した後、養嗣子となった長称(ながまさ)は、三浦義周の子・義如の女と結婚している。なお、鵜殿氏先祖鵜殿藤助長次は督姫叔父にあたり督姫天正11年北条氏直嫁いだとき、これに随伴し後北条氏滅亡まで小田原暮らしていた。

※この「浄閑茂次と義周の関係」の解説は、「三浦浄心」の解説の一部です。
「浄閑茂次と義周の関係」を含む「三浦浄心」の記事については、「三浦浄心」の概要を参照ください。

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