波多野氏系門奈氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:52 UTC 版)
『寛永諸家系図伝』には門奈直友(五郎太夫)が今川義元に仕えたとあるが、『寛政重修諸家譜』によれば門奈氏の家譜では直友(五郎太夫)を秀直(藤太郎)に作り、波多野義通後裔の昌通(玄蕃允)の子としている。直友ないし秀直の子の直宗(太郎兵衛)が今川氏の没落後徳川家康に召し出され、遠江国豊田郡内に所領を得た。直宗の長子直友(善三郎)は永禄12年9月1日(1569年10月10日)に所領を安堵された。直友は三方ヶ原の戦いで戦死したが、その子直勝(善左衛門)は武蔵国都筑郡、橘樹郡、上野国勢多郡、新田郡などに所領を得て旗本となった。 また、直宗の次子宗勝(助左衛門)も徳川家康に仕え、伏見奉行などを務める。『徳川実紀』によれば、関ヶ原の戦いの際に野々村四郎右衛門が誤って自らの馬を家康の馬へ乗りかけた。家康は怒って野々村へ切りかかり、野々村は驚いて走り去った。なおも怒りは止まず、家康は側にいた宗勝の旗指物を背中の筒ごと切ったという。ただし『慶長年中卜斎記』は門名長三郎とする。『寛政重修諸家譜』によれば、宗勝の子の宗家(半兵衛)を門奈氏の家譜では某(長三郎)に作る。 『寛政重修諸家譜』の編纂時点では、次の各家があった。 門奈直極(伝十郎):采地510石余。 門奈直暉(半右衛門):廩米200俵。 門奈正安(銕右衛門):采地200石、廩米200俵。 門奈富名(秀五郎):采地500石。 門奈正芳(助十郎):廩米340俵余。 門奈繁勝(弥一郎):采地500石。 また、水戸藩家中にも門奈氏があった。幕末の天狗党の乱に際して門奈直忠(三衛門)が大発勢に属し、のち古河藩に預けられて自刃している。
※この「波多野氏系門奈氏」の解説は、「門奈氏」の解説の一部です。
「波多野氏系門奈氏」を含む「門奈氏」の記事については、「門奈氏」の概要を参照ください。
- 波多野氏系門奈氏のページへのリンク