沖縄尚学高校時代
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沖縄尚学高校へ進学すると1年夏からベンチ入りしたが、1年秋は部内の不祥事により1か月の対外試合禁止。エースとして迎えた2年夏の県大会では、浦添商業との準決勝で両足けいれんにより途中降板し、試合中に救急車で運ばれ、チームは延長戦で敗れた。 3年春は甲子園への出場を果たし、聖光学院との初戦で自己最速の147km/hを計測して完封勝利。続く明徳義塾戦では1失点完投勝利。天理との準々決勝では5回からリリーフ登板し、打球が左膝に直撃するアクシデントに見舞われながらも、リードを守って最後まで投げ抜いた。翌日の東洋大姫路戦では、痛み止めを飲んで志願して先発マウンドに上がり、チームの勝利に貢献。3日連続登板となった聖望学園との決勝戦では完封勝利を収め、同校を9年ぶり2度目の全国制覇に導いた。この時バッテリーを組んでいたのは1学年下の嶺井博希で、嶺井とは大学でもバッテリーを組んだ。 3年夏は県大会決勝で浦添商業に敗れ準優勝。プロからも注目されたが、亜細亜大学への進学を希望し、プロ志望届は提出しなかった。2008年12月9日に同大学の入試に合格した。
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