水谷新六と玉置半右衛門の開発願い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:13 UTC 版)
「沖大東島」の記事における「水谷新六と玉置半右衛門の開発願い」の解説
沖大東島が正式に日本領に編入された後、南鳥島の開発事業を行っていた水谷新六が沖縄県に開発願いを提出し、1901年5月11日に認可が下りた。水谷は南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていたが、乱獲によって鳥類は激減していて撤退を考え始めていた。1901年9月、水谷は羽毛採取を目的として沖大東島へ向かったものの、船が台湾、フィリピン方面に漂流してしまい、結局沖大東島に辿り着けずに帰還した。 開発願いは数年間開発に着手しない場合取り消されることになっており、水谷の場合も1903年6月6日に認可が取り消された。1902年頃には、1893年頃に沖大東島を発見して借地権を得ているとする人物が、資金と人材を集めようとした詐欺事件が起きている。1903年8月には横浜市の木村萬四郎という人物が沖大東島と北大東島で開墾と牧畜業を行いたいと、25年間の両島の開発権を申請したとの新聞報道がなされた。 1906年、玉置半右衛門が開墾と羽毛採取の目的で沖大東島の15年間の開発権を取得した。玉置は1899年10月に南大東島、北大東島両島の開発権を取得していた。1906年当時、南大東島の開墾にかかり切りの状況で、北大東島はほとんど手つかずのままであった。つまり実際問題として開発権取得時の玉置には沖大東島の本格開発に着手する余裕は無かった。 それでも玉置は開発権を取得した後、沖大東島の調査のために調査船を派遣した。調査船には水谷新六の甥が水夫として乗船していた。後述のような事情から水谷の甥は水谷新六から沖大東島の岩石や土砂を持って帰るように依頼を受けていた。
※この「水谷新六と玉置半右衛門の開発願い」の解説は、「沖大東島」の解説の一部です。
「水谷新六と玉置半右衛門の開発願い」を含む「沖大東島」の記事については、「沖大東島」の概要を参照ください。
- 水谷新六と玉置半右衛門の開発願いのページへのリンク