毛利氏と三好氏・宇喜多氏との合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:07 UTC 版)
「本太城」の記事における「毛利氏と三好氏・宇喜多氏との合戦」の解説
元亀2年5月、浦上宗景と宇喜多直家の要請を受けた三好家の重臣・篠原長房が阿波・讃岐の軍勢を率い児島に侵攻した。小早川隆景は粟屋就方に兵を与えて児島の救援に向かわせたが、5月の備前児島の戦いで浦上軍と援軍に駆けつけた三好氏配下の篠原長房率いる阿波水軍衆に惨敗を喫した。また備中では庄勝資が三村氏の本拠である松山城を占拠して宇喜多直家に内通し、同時に宇喜多勢が三村領を侵し幸山城を奪取した。 この間、毛利包囲網の攻撃が激化する中で毛利元就は病床にあったが、安国寺恵瓊を使者として京の足利義昭へと遣わせて大友・浦上・三好などとの和睦の周旋を依頼していた。しかし、三好が含まれている事に義昭が難色を示し失敗。6月14日には恵瓊の帰国を待たずして死亡し、毛利氏の家督は嫡孫毛利輝元へと移っている。 同年9月、再び備中佐井田城で植木秀資(秀長の子)の援軍である浦上・宇喜多と毛利・三村両陣営の武力衝突が起きたがこれも浦上・宇喜多軍が勝ち、三村元親の実兄庄元祐がこの戦で討ち死にした。本太城は宇喜多家臣の能勢頼吉に与えられた。
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