毘沙門天について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 14:03 UTC 版)
「慈眼寺 (新潟県出雲崎町)」の記事における「毘沙門天について」の解説
そもそも当山の鎮守毘沙門尊天は 人皇46代孝謙天皇の御宇天平年中 行基菩薩 諸国を巡化し暫く錫を停め給ひし際に 村民の懇請により自ら一刀三禮にて彫刻なし給ひたる霊像にして久しく中條教塚の山上に安置し奉りしが 其の後 信徒相謀り一宇を創建して萬法寺と称し遷して本尊とせり 明応2年 川中島の役上杉氏の臣某の焼く所となり 堂宇烏有に帰し 尊像も亦在処を失ひたれは村民悲哀恐懼に堪えさりしか 寛永7年の春 山﨑嘉七 偶ま郊野を過き異光の草裡に輝くを見て走り往て之を視れは尊像なりしかは歓喜踊躍し便ち奉請して当寺に安置し村民始めて蘇生の思をなせり 明治17年5月 当寺13世梵戒和尚 新たに一宇を建立して之を遷し又講中を組織して庶人の参詣を勧進せり 日露の役(日露戦争)起こるに及び久田村 小黒禮治 徴に応して従軍するや 其父母日夜参禮して 其恙無きことを祈ること甚た切なりしが 38年3月6日の夜夢に 一老衲枕上に現れて 我れは是れ慈眼寺の毘沙門天なり 汝等の愛子今や戦地に在て命を失わんとす 汝等の至誠に感して之を救護せり と告て畢て去り給ふ 数日を経て禮治の書到れは 則ち果たして危難に遭ひ 僅に免れたることを報せり 而して其日時等 悉く尊天の夢告に符合せるを以て一家驚喜して霊感の厚きを謝したりしか 遠近相伝へて帰信益す深きを加へり 仏説毘沙門経に曰く若し人 毘沙門神咒を誦すること 一百八偏せは百難悉く消除し福徳共に円満なることを得んと 当山鎮守尊天の霊験によりて 其感応の虚しからさること信奉すへし — 慈眼寺15世 橋本先功による慈眼寺鎮守略縁記より 現在では毎年5月26日に毘沙門講大般若会があり、その読経中に御開帳される。
※この「毘沙門天について」の解説は、「慈眼寺 (新潟県出雲崎町)」の解説の一部です。
「毘沙門天について」を含む「慈眼寺 (新潟県出雲崎町)」の記事については、「慈眼寺 (新潟県出雲崎町)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から毘沙門天についてを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 毘沙門天についてのページへのリンク