歌原十三朗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:51 UTC 版)
「サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校」の記事における「歌原十三朗」の解説
京都府知事をしていた槇村正直はレオン・デュリーの「京都から、つぎの日本を背負ってたつ人材を養成しなければ」という進言に基づいて、1878年(明治10年)11月20日、フランスへ8名の留学生を送った。その中の一人が歌原十三朗である。歌原はフランス人レオン・デュリーの元でフランス語を習った。フランス語をよく解した。フランスへの留学の前年1877年、エミール・ギメが日本を訪れた。そのとき、ギメの調査通訳を務めたのが歌原であった。デュリーと歌原たちを乗せた船は1878年1月2日にマルセイユに到着した。歌原たち8名の留学生はマルセイユのサンシャルル校で4カ月間フランス語を学んだ。ときに歌原は18歳であった。1879年、歌原十三朗はサン=テティエンヌ鉱業学校に入学した。それは前述の塩野門之助がサン=テティエンヌ鉱業学校に入学した1年後であった。明治初期、フランスの地方都市にある学校に日本人二人が同時に在籍するのは宿命的なものであろうか。歌原は勉学に励んだ。当時の成績表によれば、歌原は同学年36人の中で上位にいた。彼のサン=テティエンヌ鉱業学校での生活は成績表でしか推察できない。歌原と塩野は友人だったのか。1881年(明治13年)、塩野は学業を終え、帰国した。それからわずか1年後の1882年2月16日、歌原は肺病のため、サン=テティエンヌで息を引きとった。Le Progrès誌のロワール県の追悼記事に歌原の死亡と葬儀日が報道されている。歌原の亡骸はサン=テティエンヌの丘の上にある市営墓地に埋葬された。後に、デュリーは歌原の亡骸を引き取り、南フランスのランベスクに墓地に眠る彼の妻ジョセフィーヌのとなりに眠らせた。
※この「歌原十三朗」の解説は、「サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校」の解説の一部です。
「歌原十三朗」を含む「サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校」の記事については、「サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校」の概要を参照ください。
- 歌原十三朗のページへのリンク