歌と手まりを木村家に預ける(文政十年夏 閏六月十五日頃 30歳)
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「貞心尼」の記事における「歌と手まりを木村家に預ける(文政十年夏 閏六月十五日頃 30歳)」の解説
〔「あつき時分」の晩夏に貞心尼は木村家に訪れた。閏六月十五日(満月)頃に貞心尼は歌と手毬を持って木村家を訪れたであろうが、またしても良寛に会えない。密蔵院にいた良寛は頻繁に木村家を訪れただろう。貞心尼の歌と手毬が置かれて日数があまり立たぬうちに良寛は返歌した。〕 これぞこの ほとけのみちにあそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ 貞心尼 出会い前の手まりの贈答歌は、林甕雄本「良寛禅師歌集」の付箋に「この贈答の歌は貞心尼が良寛禅師をとひけるに、おはしまさヾりけれバ、手まりにこれやこの歌をそへて残しおきける。師後につきてみよの歌をかへし玉ふと遍澄師いふ」とあるように、密蔵院仮寓の不在中の出来事であった。 — 宮 栄二 、「貞心尼と良寛 : 関長温との離別説」『越佐研究』40, 1980, p. 54 「あつき時分は御かへり遊ばさるべくと存じ候へばどふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候」と述べているから、貞心尼は夏の盛りに良寛を木村家に訪ねたのだろう。その折手作りの毬を土産にしたらしい。しかし良寛は留守だったので、歌を木村家に託しておいたと思われる。秋、帰庵した良寛はその歌を見て、返歌を送った。それが「御かへし」の歌である。「つきて見よ」といっているから、貞心尼の訪問を促したと見てよい。 — 谷川敏朗 、『良寛 伝記・年譜・文献目録』1980, p. 403 〔文政十年は、立春 一月九日=1827年2月4日、立夏 四月十一日=5月6日、立秋 閏六月十六日=8月8日、立冬 九月十九日=11月8日となる。現代の定気法による計算。但し文政時代の実際の暦には数日の誤差があるといわれる。〕
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