欧州留学と反共反蔣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 09:57 UTC 版)
同年12月、張君勱は梁啓超・丁文江らとドイツへ遊学に赴き、まず唯心論の哲学者のルドルフ・オイケンを訪問し、張君勱はその下で学んだ。続いてフランスに向かい、アンリ・ベルクソンにも師事している。これらにより、張君勱は自身の哲学的基盤を構築することになった。1922年(民国11年)1月、張君勱は帰国し、上海呉淞市政籌備処副主任となる。また、章炳麟(章太炎)が上海で開催した国事会議にも参加した。このときに張君勱は『国憲論』を執筆し、憲政の施行の必要性を訴えている。 その後、中国でマルクス主義が台頭してくると、張君勱は唯心論の立場から唯物論を批判する論稿を次々と発表した。1924年(民国13年)、上海国立自治学院(後の国立政治大学)院長に就任している。その後、中国国民党が北伐を成功させ、反共の蔣介石が国政の主導権を握ったが、張君勱は蔣介石が推進する一党独裁に反発し、激しく批判を加えた。そのため、1929年(民国18年)6月に国民党により逮捕・拘禁されてしまい、章炳麟・杜月笙の斡旋で辛うじて釈放されている。10月、ドイツに赴き、イェーナ大学で教官を務めた。
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