楊氏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:15 UTC 版)
290年4月、武帝が崩御すると、司馬衷が即位した。 恵帝(司馬衷)は大赦を下して永熙と改元し、皇后楊芷を皇太后に、太子妃賈南風を皇后に立てた。5月、司馬炎を峻陽陵に埋葬した。8月、司馬遹を皇太子に立てた。恵帝が後を継いで以降、楊芷の父である太傅楊駿が朝政を牛耳るようになり、全ての詔は恵帝が批准した後、楊芷が確認してから発布することになった。だが、楊駿は失政を連発して周囲の諫言を聞かなかったので、大いに衆望を失った。また、楊駿は名望高い汝南王司馬亮を警戒し、恵帝に詔を書かせて石鑒と張劭に司馬亮誅殺を命じたが、未遂に終わった。10月、和嶠が謁見すると、賈南風は以前の恨みから、恵帝を介して「卿は以前、朕が家を継ぐに相応しくないと言ったそうだな。今はどう思うか」と詰った。 291年1月、永平と改元した。3月、楊氏を忌み嫌っていた賈南風は殿中中郎孟観・楚王司馬瑋らと政変を起こし、恵帝に詔を作らせて楊駿が謀反を起こしたと宣言させた。この時、楊駿の甥である段広は跪いて恵帝へ「楊駿には後継がいないのに、どうして謀反して帝位を狙う必要がありましょう。どうが今一度考え直してくださいますよう」と懇願したが、恵帝は何も答えられなかった。楊駿とその一族は尽く誅殺され、楊芷は幽閉されて後に殺害された。さらに、楊駿の妻である龐夫人も処刑すべきだとの声が上がると、恵帝は反対したが、群臣が幾度も訴えたので逆らえずに批准した。その一方、楊駿の部下は全員誅殺すべきだという意見は退けている。同月、大赦を下し、元康と改元した。
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