検見取お断り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 13:51 UTC 版)
美濃の郡上藩領に夏が訪れようとしていた宝暦4年(1754年)5月、山紫水明に恵まれた平和な山間の村々を揺るがす大ニュースが伝えられた。今年からこれまで郡上藩で採用されていた毎年定額の年貢を納める定免法から、収穫高によって年貢高を決める「検見取り」に変更するという。 郡上藩主の金森頼錦はぜいたくな暮らしを好み、幕閣中枢に対しての接待も繰り返し行っていた。このため郡上藩の財政は火の車となり、最近ではあれやこれやの口実を設けては農民たちから税金をむしりとっていた。そんな郡上藩が行う年貢徴収法の変更は増税となること必至であった。 郡上藩領の農民たちは立ち上がった。約3000人の農民が郡上八幡城の御蔵会所に殺到し、「検見取お断り」の強訴を行った。大勢の農民たちの強訴を前にして藩側は妥協を余儀なくされた。国家老は検見取お断りの願いを聞き届ける旨のお墨付きを農民たちに示し、事態を収めた。 そして農民たちの要求が聞き届けられた同じ日、郡上一揆で中心的な活躍をすることになる定次郎は父親となった。
※この「検見取お断り」の解説は、「郡上一揆 (映画)」の解説の一部です。
「検見取お断り」を含む「郡上一揆 (映画)」の記事については、「郡上一揆 (映画)」の概要を参照ください。
- 検見取お断りのページへのリンク