柴田秀利のロビー活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 01:24 UTC 版)
「正力マイクロ波事件」の記事における「柴田秀利のロビー活動」の解説
視察団にはNHKの解説委員だった柴田秀利も随行し、ワシントンD.Cではカール・ムント上院議員と会談を行っている。1950年に共産主義に対抗するため、日本を含むアジア太平洋地域で「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)の映像版である「ビジョン・オブ・アメリカ」を発信するための放送網構想を公表したムントに対し、柴田は日本におけるテレビ放送網は日本人が運営すべきであり、その中心人物は正力こそ相応しいが、現在の彼は公職追放処分中であると伝えている。 1948年の暮れに、三極真空管発明者として有名なリー・ド・フォレストが発明家の皆川芳造に対し、日本でテレビ放送を運営する計画を持ちかけ、皆川が新聞人である正力に対し放送局の運営を勧めた事により、日本の民間テレビ放送が胎動したとするのが通説である。しかし、フォレスト・皆川ルートでの働きかけは正力自身が公職追放中だった事、また連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が承認しなかったことから成功はしなかった。 ムントは柴田の説明に対して、正力への協力を約束する。会談を終えた柴田はサンフランシスコに寄るが、アメリカに視察に来ていた古垣鉄郎NHK会長の一行とホテルロビーで偶然の再会を果たす。帰国後はテレビ分野に進出するつもりと抱負を語る柴田に対し、古垣たちは「あまり勝手な動きはしないで解説の仕事に戻っては」と冷淡な態度を見せている。
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