柳家小さん (4代目)
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4代目
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本名 |
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生年月日 | 1888年4月18日 |
没年月日 | 1947年9月30日(59歳没) |
出身地 | ![]() |
師匠 | 3代目柳家小さん |
名跡 | 1. 柳家小菊 (1906年 - 1908年) 2. 3代目柳家小きん (1908年 - 1913年) 3. 5代目柳家小三治 (1913年 - 1918年) 4. 4代目蝶花楼馬楽 (1918年 - 1928年) 5. 4代目柳家小さん (1928年 - 1947年) |
活動期間 | 1906年 - 1947年 |
所属 | 落語協会 (1923年 - 1934年) 東宝名人会 (1934年 - 1946年) 落語協会 (1946年 - 1947年) |
備考 | |
落語協会会長 (1946年 - 1947年) |
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4代目 柳家 小さん(やなぎや こさん、1888年4月18日 - 1947年9月30日[1])は、東京の落語家。本名∶大野(のち平山) 菊松[1]。
経歴
東京の麹町の生まれ、小学校から暁星中学に合格したが体を壊し入学を断念。洗濯屋などに奉公に出る。[要出典]
1906年に2代目柳家つばめ(当時小三治)の勧めで3代目柳家小さんに入門[1]。柳家小菊と名乗る[1]。
1908年 12月[要出典]、3代目柳家小きんに改名の上、二ツ目に昇進した[1]。若手勉強会『胆力養成会』に出演し実力をつけ将来を嘱望される[1]。1913年4月、小さん一門の出世名であり師匠小さんの前名5代目柳家小三治に改名する[1]。
1916年2月に真打昇進[1]。1918年3月、4代目蝶花楼馬楽を襲名した[1]。1928年4月、師匠小さんが存命の間に4代目柳家小さんを襲名する[1]。蝶花楼馬楽は弟子3代目三遊亭圓楽が5代目を襲名した[2]。落語協会に所属していたが1934年に脱退、東宝専属となり[1]、 東宝名人会に出演した[要出典]。戦時中の芸能団体統合を経て、戦後の1946年の再編時に落語協会に復帰して会長となる[1]。
1947年9月30日、死去。59歳没 。上野・鈴本演芸場での「三十日会」出演直後の急逝で[1]、 3代目三遊亭圓歌によると新作落語『鬼娘』口演後、楽屋に下がり、前座が出した茶を飲み終わり、湯呑みを置いたところで前に倒れ、そのまま死去したという。墓所は台東区の本寿寺にある。[要出典]
人物
無口かつ温厚な性格ながらも、「曲りたる心あるものは落語を止めるべし」など、落語家のあり方に意見を持つ人物であった[1]。また「新作落語作話会」という会合を自宅にて月例で主催し、新作の制作を奨めた[1]。「創作力のない者は、噺家ではない」という言葉も残している[3]。
人のあだ名をつけるのが巧く[1]、 5代目柳家小さんの前座名「栗之助」などにその卓抜なセンスが窺われる。ほかにも小さんが付けたとされるあだ名に西村楽天に「西洋の羅漢様」、柳家小半治に「面子の頼朝」、8代目春風亭柳枝に「ホワイト小僧」、5代目古今亭志ん生に「蟒蛇の吐き出され」などがある。[要出典]
孫は画家の大島誠[要出典]。
得意ネタ
主に滑稽噺を得意とし、飄々としながらも単調・淡々とした口調でありながら、時折鋭い警句を交えるような芸風であった[1]。
『かぼちゃ屋』『ろくろ首』『三軒長屋』『青菜』『おばけ長屋』『雑俳』『三人旅』『芋俵』などがある[1]。
一門弟子
- 2代目柳家小満ん
- 8代目金原亭馬生 - 一門を転々とし移籍してくる
- 林家彦六 - 一門を転々とし移籍してくる
- 4代目鈴々舎馬風 - 6代目金原亭馬生門下から移籍
- 3代目柳家小團治 - 6代目春風亭柳枝門下から移籍
- 24代目昔々亭桃太郎
- 柳家卯之吉 - 初代三遊亭圓右門下から移籍
移籍
廃業
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 古今東西落語家事典 1989, pp. 184–185, 江戸・東京篇 九、昭和戦前の落語界(四代目柳家小さんの項).
- ^ 古今東西落語家事典 1989, pp. 234–235, 江戸・東京篇 十、昭和戦後の落語家たち(八代目林家正蔵の項).
- ^ 5代目柳家つばめ『創作落語論』河出書房新社、2009年、24頁(三一書房、1972年の新版)
参考文献
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典』平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X。
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