板築駅と「本坂」の語源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 06:22 UTC 版)
磐田海や大乃浦の水が引いた後、旅人の往来は浜名湖南岸へ移動し、貞観4年(862年)に浜名の橋が造られた頃から往来が本格的になったとみられている。浜名湖南岸の往来が盛んになると、二見の道はさびれていき、裏街道としての役割を担うようになった。 871年の『文徳実録』巻1には、842年(承和9年)8月13日に、橘逸勢が遠江国の「板築(ほんづき)駅」まで行ったところで亡くなった、との記述がある。本坂峠を静岡側に下ったところにある「本坂」の地名は「ほんづき」が転訛したものであり、また本坂の東隣にある日比沢には「ほうずき山」という山があるが、これも「ほんづき」から転訛したもので、上代はこの一帯(現在の浜松市北区三ヶ日町)を「ほんづき」と呼び、そのどこかに「板築駅」という宿駅があった、とみられている。 橘逸勢は承和の変で「東国で挙兵して謀反を起こそうとした」として伊豆に流刑に処せられ、流刑の旅の途中に死亡した。公的な目的で利用されていることから、板築駅に至る道は官道で、東海道の別路として使用されていたとみられている。 『延喜式』には「板築駅」に関する記述はみられないが、これは駅制が衰退して駅路が整理・改廃されたことによるものと考えられている。 また「本坂」の語源は、三河の「穂の国(宝飯郡)」に通じる坂を「穂の坂」と呼んだのが転訛したとする説、「穂の国」の「境」から転訛したとする説もある。
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