松浦家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)
「山鹿素行日記・年譜」に山鹿素行と吉良義央との交際が度々記されている。旅で同宿したり、吉良邸へ公卿とともに訪問した様子が記されている。松浦重信は素行を通じて義央とも交流があったとされ、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、松浦家に令和の御代まで現存している。松浦家自身も柳の間で諸大名に江戸城での作法や礼儀を指南していること、義央と同時代人の松浦棟は奏者番を務めており、「履担斎遺文」にも義央との交際が記される。 素行は流罪から放免されると本所に住み(山鹿平馬宅は吉良邸にも平戸藩下屋敷にも近い)、松浦家に仕官を試みたが 実現せず、平戸藩は庶子の山鹿万助(高基)と弟・山鹿平馬を召し抱えている 。山鹿流に学んだ 平戸藩主は総じて吉良寄りであり、特に松浦静は「甲子夜話」では吉良には敬称、赤穂義士は呼び捨てか蔑称で記す、など極端である。室鳩巣の言動や著作についても「腐れ儒者」、「笑止なる見解なり」と悪口が書かれている。
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